豚の矜持 番外編2 ある家臣の独白

あの方は、私にとってのあこがれの的だった。

王国の要たる宰相、そして国守り5大家の主、めったにその姿を見ることはできなかったがその堂々たる姿に私は魅せられていた。

毎年、新年の集いの場に参加するとき私の父親も誇らしげに語っていたものだ。

王国を支える血族の末席としてこの儀式にのぞめるなんて幸せだと。

「私たちの中にも、少しだが主様と同じ血が流れているのだ」

かの家の血族であることは、私の親族の誇りだった。

私の父は、家臣として主に忠誠を誓っていた。

父はかの家の裏方を取り仕切る家令として、自他ともに認める有能な男だった。

だから、私もまた父の跡を継いでこの家を取り仕切ることを夢に見て、それが目標だった。

「私たちの使命はこの家を存続させることだ」父は私たちによく話していた。「私たちは血族のために力を尽くし、血族は私たちを守りはぐくむ。そうやって国守りの一族は栄えてきたのだよ」

偉大な主の元、領地は栄えていた。主の後を継ぐ子供たちはみな賢く、家は安泰だとみんな信じていた。

そのどこが間違っていたのか。

気が付いた時には何かが狂い始めていた。

新年の集いはなくなり、主は領地の見回りに行くことがなくなった。

家付きの司祭たちは、表立っての活動を禁止され、神殿の神官たちは自分たちの祭りごとに固執するようになった。精霊の皆を口にするものは減り、怪しげな宗教が国中に広まっていた。

当初私たちは楽観視していた。どんなに、周りが変わろうとも血のきずなで結ばれた一族の結束は固いと。必ず変化に対応し、栄えることができると。

かつては別の名前で呼ばれていた家の名はゴールドバーグと呼ばれるようになり、家に使えるものですらここはゴールドバーグ家だと思うようになった。

そして、私が一通りの仕事をこなせる年になったころ、家の主は家の中で一番無能と呼ばれていた末の息子に代替わりしていた。

最初のころはそれでも主としての役割をこなそうとしていた男は、酒や薬におぼれて、ただの醜い肉の山になっていた。

本当に久しぶりに、ゴールドバーグ公ウィリアムと対面した私は本当にがっかりした。ウィリアムにはその父親のりりしい面影はどこにも見当たらなかったからである。

「アダムズ・・・」私のことを紹介された公爵はかすかに名前を呼んだだけだった。

「ウィリアムさまはおかわいそうな方なんだ」私の嫌悪を感じ取ったのか前任者は裏でささやいた。「ブランドブルグの血をひく奥様にすっかり実権を取られて、薬におぼれてしまわれた。よく面倒を見て差し上げるのだ。あの方が最後の直系の血をひく方なのだから」

私に命じられたことは、公爵の身の回りの世話をすることともう一つ、なんとしてでも子供を作らせることだった。

最初のころは、公爵の立場に同情していた。彼がおぼれている薬は、子供を作るために飲み始めたものだと知っていたからだ。

だが、その感情も徐々にすり減り、やがては醜い肉の塊に対する嫌悪が先立つようになっていった。

華やかな公爵夫人の館とそれに仕える者たちの姿を見て、自分の成果の期待できないむなしい仕事を嘆くようになった。それは母屋で働く者たちが総じて感じていたことだった。私たちは主のことを豚と呼ぶようになり、肉がウィリアムという名前を持った個人であることすら疎ましく感じるようになった。

私の不満をくみとった同輩たちは離れの仕事を回してくれるようになった。

「お前も不幸だよなぁ」彼らは憐みのこもった目で私を見ていた。「あんな化け物の世話を命じられるなんてな」

かつて公爵の身の回りの世話といえば、誉れ高い役割であったはずだった。それが今では一段高いところから見下される役割になっている。それが私の心にいつも突き刺さる針となっていた。

何かが変だ。どうしてこうなったのだろう。

私たち母屋に勤める者たちの士気はますます下がり、それでも義務として仕えているのは私を含めて数人しかいなくなった。

そう、義務だった。私は豚公爵を養い、その行動を離れの主に報告しなければならなかった。そう命じられたから。それをこなすことでいずれは取り立ててもらえるかもしれないという一抹の希望にすがりたかったのだ。

だが、それも限界が来る。何をしても報われないむなしい仕事を続けられるものはそうはいない。

豚公爵の身の回りを、豚お気に入りの女が世話をするようになってからは豚の住んでいる母屋に足を踏み入れることすらしなくなった。

「アート、なぜ、ウィリアムの面倒を見ない?」庭番のアーサー様があるとき私を呼び止めた。「お前ならば、責任をもって対処してくれると思って、推薦したのに」

「あの方が私を遠ざけているのです」私は事実を口にした。「公爵はついに頭まで薬に侵されてしまいました。私はもう彼にはついていけません」

「たしかに、あれの言動はおかしい。だが、そんな時だからお前がそばについていてほしいのだ。最近では怪しげな風体の輩を館に招き入れて、恥さらしな真似をしているとも聞く……」

「あの方は私を必要としていません」口にしてから、私はその恐ろしい事実に気が付いた。彼は私を既に必要としていなかった。

主から必要とされていない、そのことがいかに恐ろしいことであったか。そして私はその恐怖すら忘れていたのだ。

やがて、主は頻繁に外に出かけるようになり、ある時領地を巡るといって出かけてから二度と戻ってくることはなかった。いつの間にか母屋を占拠していた卑人どもは消え、庭番のアーサー様たちも姿を見せなくなった。

ゴールドバーグ家が終わったと気が付いたのはずいぶん経ってからだった。

私が最後にゴールドバーグ公ウィリアムの姿を見たのは彼の裁判の日だった。

私は顔を隠すようにして傍聴席に立っていた。

何人もの私の同僚が証言するためにそこにいた。あるものは金欲しさに、あるものは自らの罪を隠すために、あるものはただ正義のために、ゴールドバーグ公とその妻を弾劾した。

私はさすがにそこまでのことはできなかった。ただ、平民に交じって隅のほうから被告人席をのぞいていただけだ。

彼が入廷したときに、私は最初誰が来たのかわからなかった。

男は大柄であるが痩せていた。田舎の農夫が身に着けているものと大差ないみすぼらしい服だった。私の知っている高価な布を巻き付けた豚とはかけ離れた人物が、ゆっくりと入場してきた。

これは替え玉だ。私はそう思った。評議会は豚公爵を見つけることができずに身代わりを立てたのだ。

彼はゆっくりと会場を見回した。私のいるほうにも目を向けた。

彼が私のことを見分けたかどうかはわからない。だが、私にはわかった。これは私が世話をしていた豚公爵だと。

そして、似ている、そう思った。あの方に似ている。

そんなことを思ったのは初めてのことだった。あれほど長い間世話をしていたのに。

新年の集いで一族のものに語り掛け、精霊に祈りをささげていた姿に男のしぐさがかぶって見えた。

私はいったい何をしてしまったのだろう。急に酔いがさめたように私の中の何かがささやいた。私たちは、いったい何をしているのだろう。

男は静かに告発を聞いていた。豚邸に勤めていたものならその証言が嘘であることはわかったはずだ。ただ食うだけだった気狂い豚に大それた犯罪を犯すことはありえない。男は偽の告発を指摘しなかった。

それどころではない。そのあと、豚公爵は朗々とよどみなく、自分の犯した罪を語った。

証言台に立ったものが告発した通りの、いやそれ以上のことまで彼は話した。

私は知っていた。彼の話す罪を犯したのは豚嫁や、彼女の取り巻きや、全然関係のないほかの家の者たちだった。

ひな壇に並ぶ王をはじめとする貴族も知っていたはずだ。それは自らの手で行われた行為だったからだ。

誰も知っているにもかかわらず、抗議も訂正もしなかった。

彼らはゴールドバーグにすべての罪を押し付けるつもりなのだ。豚をいけにえにささげて、自分たちは逃げ切るつもりなのだ。

私は血族が滅んでいくところを目の当たりにしている。そのことに初めて気が付いて私は茫然とした。そのことに思いも寄せなかった自分が信じられなかった。

「豚を吊るせ」

しかし、私は黙っていた。物や罵声が飛び交う会場の中で私は言葉を発することができなかった。

ゴールドバーグ邸が炎に包まれ、公爵とその妻が処断されても私は沈黙していた。

そして、私は逃げるようにしてあの国を出た。名誉も、誇りも、すべてを捨てて逃げだした。

今私は、混乱から逃れてきた民として今までの経歴をすべて隠し、小さな商家の雇人として暮らしている。ここで私は新しい主人から信頼され、家族を持つこともできた。

平穏で穏やかな日々だ。時々流れてくるあの国の様子を聞くとき以外は。

あそこのことを考えると私の胸は苦しくなる。中にいるとわからなかったことが見えているからだ。エリザベータ様やアーサー様はどうしておられるだろうか? 血のきずなで結ばれていたはずの一族はどうしているだろうか。

外国に逃れた私のところへかつての一族からなにか便りが入ることはなかった。一族としての助力を請われることも、血の裏切り者として処断されることもない。私はすでに彼らの一族ではなくなっているのだ。

それを思うと、胸の奥がひりついた。

私は一生この痛みとともに生きていくことだろう。何が狂っていたのかを自問しながら。

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