今日も空から大粒の雨が落ちてきた。
彼女は雨の日が好きだった。特にこういう激しい雨が。
雨の日には、いつも不思議な幻を見る。
雨音に耳を澄まして、目を閉じると、ある光景が浮かんでくるのだ。
激しく打ち付ける雨の中、自分がずぶ濡れになって座り込んでいる。服の中まで水がしみ通って張り付く布が気持ち悪い。
彼女は泣いている。叫んでいる。
それを父が自分の目線と同じ高さでのぞき込んでいる。
父は何かを必死に彼女に訴えるのだ。
「おまえはわたしのただ一人の娘だ。大切な宝物だ」
父は続けて何かをいおうとする。
音もなく口だけが動いている。口だけが何かを訴えている。
その先はない。映像はいつもそこで途切れる。
私はそのとき何を言ったのだろう。私はあのあと何を言うのだろう。
繰り返し、繰り返し、その幻を見ているうちについに現実に起こったことのように感じてしまう。
…おまえは私のたった一人の娘…
その言葉を思い起こすと、不思議に心の奥が安定する。
単調なここでの生活の中で、ただ一つの碇となって、私をエリザベータ・ゴールドバーグにつなぎ止める言葉。
ここでは女達は何物でもない。
ここでは誰でも神殿の婢でしかない。
単純な労働、単純な決まった生活、単純な祈り…すべてが隔離され、完結された場所だ。
隣で祈っている女がいったいどういう素性で、なぜここにいるのか、それすら語ることを許されていない。
ここで彼女は死んでいくはずだった。誰でもないただの神殿に使える女として。
名前もなく、家もない、ただの女になったはずだった。
…大切な宝物だ…
父の声が何度もよみがえる。
それはとてもおかしなことだった。彼女は父のことを忘れようとしていた。あの人は彼女の人生の汚点のようなものだった。憎しみを抱いていたといってもいい。
父はいつも彼女を甘やかした。
気弱な、見ているとどうしようもなくいらつく豚だった。
醜くて、汚くて、父親という肩書きさえなければ見るのもいやな豚だった。
怠惰でなにもしない、横たわって食べ物を口に運ぶだけの肉の塊だった。あんな生き物がこの世にいること自体おぞましい、そう思っていた。
昔は、大好きだったのに…
いつからだろう、父を毛嫌いするようになったのは。
そんな雨の日に彼女は呼び出された。
その日もいつもと変わらない日課が続いていた。朝の祈り、朝食の支度。
ここに来て何日過ぎただろうか。もう数えることもしなくなった。ただ、日が長くなり、そしてまた短くなっていく。高い窓から差し込む光の長さだけが季節の移り変わりを表している。
いつものように黙って、静かに、日課をこなしていると、年をとった婢の長が無言でこちらに来るように合図をしてきた。
教えられたように目を伏せて、黙って老女についていった。
「面会よ」
女はただ一言告げた。
面会? 彼女を訪ねてくるものなど今まで一人もいなかった。誰もが彼女のことを神殿に奥深くに埋め、忘れたがっているかと思っていたのだが。
彼女を待っていたのは、いかめしい顔をした男だった。
ブルーウィング公。彼女をここに連れてきた男だ。
最初のころはこの男のことを憎もうとした。彼女を利用し、利用された男という生き物は嫌いだった。形ばかりの判決のあと、有無を言わさず彼女はここに連れてこられて置き去りにされた。何も説明もせず、ただ付き添って、去って行った。
この変化に乏しい生活はそんな感情すら風化させていた。男の顔を見ても何も感じない。
「王命だ」
男は紙を一枚付き添いの女に渡した。女は黙ってそれを受け取り、エリザベータを残して女達の牢獄に戻っていった。
「ついてきなさい」
男は残された彼女の顔を確かめるように見て、歩き始める。
そうして、本当に久しぶりに彼女は神殿の外に出た。神殿の外には馬車が待っていた。当たり前のように彼女を馬車に乗せ、老いた男は馬車を走らせる。
久しぶりに見る外は冷たい雨が降っていた。もうすぐ雪に変わるかもしれない冷たい雨だった。馬車の中で男は黙って目を閉じていた。同乗していた護衛達も何も言わない。彼女のことを知っているはずなのに何も言わない。ただ冷たい目で監視している。彼女は未だ囚人なのだ。
しかし、宿では思いのほかよい待遇だった。個室、十分な温かい食事、そして何より温かい風呂。風呂や着替えを手伝う召使いまでつけられている。まるで貴族の姫君のような扱いだ。もはや彼女はそのような身分ではないのに。
彼女は召使いの手を借りることをやんわりと断った。今の彼女はただの神殿に使える女に過ぎない。神殿では何でも一人で行わなければならなかった。着替えも入浴も掃除もすべてを。それでも、それ以前の牢獄の生活と比べると天国のようだった。そして、牢獄さえもそれ以前の生活と比べると遙かにましだと彼女は感じていた。
あれは、地獄だった。
まだ、外には雨が降っている。彼女はぼんやりと外を見つめた。
硝子の入った高価な窓に陰のような彼女の顔が映っている。父の亡霊がまだ頭の中をさまよっている。
次の朝、扉を開けた護衛の剣士はエリザベータが昨日と同じ格好をしているのに驚いたようだった。用意された服は袖も通さないままたたんでおいてあった。ブルーウィング公はかすかにとがめるような様子を見せたが、何も言わなかった。
沈黙の中旅は続いた。ブルーウィング公も、いや、今は前ブルーウィング公だった、その護衛達も必要以上のことを話さなかった。内心どんなことを思っているにせよ、それを表に出すことはなかった。彼女もまたほとんど何も話さなかった。話すことがなかったといったほうがいい。
それでも、宿で、通りで、交わされたおしゃべりから、彼女が閉じ込められていた間におこったことがうすうすわかってきた。彼女が裁かれたときに権力を握ろうとしていた評議会の権威は陰りつつあった。それ以上にかつての貴族階級は分裂し、庶民は不満をあからさまに口にしている。悪名高かった父は死に、母もどこかで衰弱死した。
王都の門をくぐったとき、彼女は初めて今からどこに連れて行かれるのかを悟った。町は冬の宴に備えて飾り付けがされていた。今まで通ってきた鬱々とした町と違って、王都はまだ活気を残していた。通りの両側には市の準備が進み、明るい色の飾り付けを抱えた商人達が右往左往している。
ただ、群衆の中に今まで見慣れない評議会の制服を着た男達がたむろしていることだけが以前と違うところだった。彼らの横柄な態度は相変わらずで、エリザベータの乗った馬車は何度も検問で止められた。
そのたびごとに丁重に誰が乗っているのか説明する護衛達は不満こそ口にしないものの、うんざりした顔を見せている。
特に、王城での検問は厳しかった。近衛達は明らかに場違いな格好をしたエリザベータを中に入れることを拒んだ。
「王命だ」
前ブルーウィング公がそう主張したにもかかわらず、馬車は長い間門の前で留め置かれた。
「失礼ですが、御前。このような風体のあやしいものは入れるなと命じられております」
近衛の制服を着た男がじろじろとエリザベータを見た。
「へぇ、よく見ると、きれいな子じゃないか」
男達はエリザベータにおなじみのにやけ顔で、頭衣の下の彼女の顔をのぞき見る。
「彼女に触れるな」
護衛の一人が初めて怒気をあらわにして、近衛達をにらむ。
「彼女は神殿の婢だ。神の怒りをかいたいのか」
「神の怒り、ねぇ」
以前よりも質の落ちた近衛は、下品な笑みを浮かべたまま、それでも引き下がる。
「姉ちゃん、還俗したいならいつでもいいなよ。待ってるぜ」
「先ほどは申し訳なかった」
ようやく透された先の小部屋でブルーウィング公が物憂げに声をかけてくる。
「最近の近衛は礼儀というものを知らない。何か飲みたいものはあるか。あとで、軽食をもってこさせよう」
窓の向こうから、明るい声が響いてきていた。かすかな音楽と、人のざわめき。
今日は冬の宴の催される日なのだ。彼女は思い出した。
毎年のように彼女は最新流行の服を身につけてこの夜会に参加していた。王子の婚約者として最上級の礼儀を払われて。
今彼女のいる部屋はきれいに整えられてはいるが、宴の装いにはほど遠いしつらえだ。
「ブルーウィング様、なぜ、わたしはここに連れてこられたのでしょう」
初めて彼女は男の顔を正面から見て質問した。
「もはやこのような場所は私には縁のないところのはず。わざわざあなたが私を連れてくる必要があるのでしょうか」
初老の男は目を細めた。
「あなたの身柄を預かっているのは私だ。私の許可なくしてあなたを神殿から連れ出すことはできない。本当はもう少しほとぼりが冷めるまで、あなたにはあそこにいてもらうつもりだった。だが…
あなたは冬の宴がなぜ行われているか知っているか」
彼女は眉を上げた。貴族社会の社交の場という以外に何か意味があったのだろうか。
「元々は何かの儀式の場だと聞いたことがあります。国の貴族が集まって行う祭祀が執り行われていたと」
「そうだ。実はそれは今でも続いている。ごく少数の家の当主しか招かれない特殊な儀式だ」
そういえば、そのようなことを母が漏らしていた。毎年のようにこのときだけはあの忌々しい豚に声をかけなければならないと。
「そのような儀式、私になんの関わりがあるのでしょう」
「あなたはただそこに参列して、私のいうままに動いてくれればいい」
初老の男ははじめて楽しそうな表情を浮かべた。
「あなたにとっても興味深い儀式となるはずだ」
この男が何を考えているのか。エリザベータには分からなかった。昔からこの男は苦手だった。ブランドブルグの圧力にけしてなびかず、保守派の重鎮でありながら、評議会の追及をかわし、今日まで生き残ってきた強者だった。彼を誘惑しようという計画は実行する前にあきらめた。守りが硬く、付け入るスキが見えなかったからだ。
そして、この男は父と会っていた。
家令が不満をこぼしていた。最近ブルーウィング公が豚のところを訪ねてきていると。彼がやってくるときにはそれ相応の対応をしなければならないので、人手が割かれるのだ。家令が探り出したところによると、二人はただ駒を取り合うゲームをひとしきり行っていただけだという。いったい何のために彼は父と会っていたのか。この狸爺が遊ぶためだけにブクブクと肥え太った豚のところを訪れていたとは思えない。
「本当に久しぶりだ」
儀式に向かう途中に老公が嘆息する。
「前にここに来たのはちょうど三年前だった。あなたのお父上がまだ御在命の時でしたな」
彼は思いだしたかのように小さく笑った。
「あの時の儀式に参加したのはわたしとお父上だけでした。長い間一人きりで参加していたものですから、ずいぶん驚いたものです」
長い階段を下りながら男は目を細めていた。
彼の言葉には蔑みも憎しみもなかった。むしろ、尊敬している相手のことを話しているかのようだった。
彼女の知る父の評判は悪徳貴族に対する憤りと憎悪に満ちたものか、肥え太った豚に対する軽蔑と嫌悪を現すものか、あるいはその両方だった。この男のように父を懐かしむように話す人にいまだあったことはない。
老いた貴族の言葉にはおべっかや嘘は感じられなかった。そもそも彼女に対して嘘をつく必要などどこにもない。
果たして彼はどんな父と会っていたのだろうか。
最期に父に会ったときに、彼は彼女のことを売女と呼んだ。家にふさわしくない、無能だとののしった。
あのように冷酷な目をした父を彼女は初めて見た。
あれだけまとっていた肉はどこかへ消え、骨と皮だけになっていた男。本当にあの豚公爵なのか、彼女も疑ったほどだった。いつものゆるくたるんだ雰囲気は消え、張り詰めたような空気をまとっていた男。彼はののしるとき以外は彼女のほうを一度も見なかった。彼女の罪が暴かれても、どんなに貶められても表情一つ変えることなく正面を向いていた。
あれは、本当に豚公爵だったのだろうか。替え玉の役者か何かではなかったか。
ぼんやりと考えている間に、階段を降り切ったらしい。
その先にも通路は続いていた。底冷えのする冷たい空間だ。
彼女が身を震わせると、護衛の男が黙って外套を肩からかけてくれた。
その先で男たちが待っていた。
彼女も知っている王太子と王弟だった。
前ブルーウィング公が礼をするのに合わせて、深々と頭を下げる。
「これが、あの女ですか」王弟はいらいらと足踏みをしている。「急ぎましょう。時間が押している」
「あの方が近年祭祀をつかさどっておられる」老人がひそかにエリザベータに耳打ちをした。「お気の毒に。いつも冬の宴の華やかで楽しい部分を見逃しておられるのだよ」
本来は王が務めるべき祭祀ということか。
エリザベータは急ぎ足で歩く男の後を追った。
しばらく行くと広い玄室に到着した。岩をくりぬいたような部屋で天井は暗くてどこまで広がっているのかわからない。中央に水盤が置かれているだけの、簡素な空間だ。
そこに幾人もの男たちがエリザベータの到着を待っていた。
青騎士と呼ばれていたキール・ブルーウィング、赤魔導士のダニエル・レッドファング、それに彼女と一時付き合っていたヘンリー・イエローリンク。みな学園で一緒だった男達だ。ほかにもその従者や親、見知った顔がこちらに向けられる。
あれほど憎いと思っていた相手もいるのに、彼女の心は平静だった。今、彼らの顔を見ても何一つ感情がわいてこない。
彼女が前ブルーウィング公のファルコと隅に控えると、儀式が始まった。
儀式の形式は彼女も知っている祈りの儀式とよく似ていた。神と精霊に感謝をささげる昔ながらの儀式である。これまではそれは彼女にとって退屈な時間でしかなかった。
だが。
ふと魔力の揺れを感じて、彼女は伏せていた顔を上げた。魔力の行使を封じられているエリザベータですら感じられるほどの魔力の流れだ。微細な力の流れが彼女の内にある魔力と反応している。
そうか。これは結界なのだ。彼女はふいに悟った。
この儀式はこの国を守っている精霊の結界を保つための儀式なのだ。
今、王弟殿下が水盤の上で自分の指を切って血を垂らしている。その血と結界が反応して魔力が揺れていた。彼は、黙って現ブルーウィング公であるキールを招き寄せる。
彼も同じように血を水盤に垂らした。また、結界が揺れている。
次は小さな瓶を持った男が一人、その中身を水盤にそそぐ。エリザベータは魔力の揺れで頭がふらふらした。
ダニエル、ヘンリーと男たちが次々に血を水盤に捧げていく。そのたびに魔力の揺れが起こり、玄室自体がほのかに光っているように感じられた。
そして、すべての目がエリザベータに向けられた。かつての罪を暴こうとする鋭く差すような視線ではない。何かを期待するような、不安げなまなざしだった。
「さぁ」
前ブルーウィング公ファルコが彼女の手を引いて水盤へ導いた。
「手を出しなさい」
彼女がおとなしく手を出すと、彼は小刀で指を傷つけた。
血が水に滴り落ちる。
ふいに耳鳴りが消えて、エリザベータは目をしばたかせる。
ほかの人の血と違って彼女の血は黒く水底に沈み込んだ。
「どういうことだ?」王弟が甲高い声をあげた。
「結界が、作動しない」
ざわりと空気が動いた。
血は彼女の指から流れ続けている。一滴、二滴…先ほどまでの魔力の鳴りは消えていた。
「どういうことだ」王弟がふたたび声をあげて、エリザベータを見た。
「ゴールドバーグの娘の血をささげたのに、なぜ、結界が作動しない?」
ああ、そういうことか。エリザベータは理解した。なぜ、自分がここに連れてこられたかということを。
彼女は久しぶりに笑い出したくなった。なるほど。確かに興・味・深・い・儀式だ。
再び、彼女に視線が集まる。
「血が足りないのだろうか」不安そうな声を上げたのはダニエルだ。
「この女、何かごまかしているんじゃないだろうな」これはキール。
そう、こうして、彼らは彼女を責めたてた。いつもいつも、悪いのは彼女だった。そして、今も。
「たとえ、私の血を全て捧げたとしても無駄ですわ」
エリザベータは顔を隠している薄い布の陰で笑う。
「だって、私の中にゴールドバーグの血は一滴も流れておりませんもの」
男たちの動きが止まった。みな一様に殴られたように目を見開いている。
「血が流れていないって、それはどういう…」王弟が彼女に詰め寄ろうとする。
「文字通りの意味ですわ。わたしはゴールドバーグの娘ではありません」
「そんな馬鹿な…」
後ろから前ブルーウィング公が彼女の肩に両手を置いて、後ろにひいた。見上げてみるといかめしい顔をした彼の目が笑っていた。
「それではいったい何のためにゴールドバーグは、命を捨てたのだ。血を残すために、そうでなければ。そのためにあれは…」
王弟の手が震えている。
「父が何を考えていたのか私にはわかりません。ですが、彼も私の出自のことは承知していたはずです」
声にかすかな抑えきれなかったあざけりが混じる。何人かの男達の表情が険しくなった。
ファルコの護衛が前に出て彼女の指に包帯を巻いた。
「そんな…今年もまた失敗だというのか」
王弟は床に座り込む。
「ほかの親族はいないのですか。血を提供できるものは」
「いない。あの血族はみなどこかへ逃げてしまった。行方不明だ」
「豚の体の一部だけでも、残っているのはないのか。そうだ、髪の毛でもいい」
「残っているわけがないだろう。全部燃えて灰になっている」
その場は儀式の場とも思えない騒然とした空気が流れていた。
後ろからそっと手を引かれて、エリザベータは男たちの輪から外れる。
前ブルーウィング公ファルコは男たちの言い争いをしり目にさっさと階段のほうへ引き上げていく。
階段を上る途中で老人は彼女に笑いかけた。
「楽しい出し物だっただろう、え?」
「老公も、お人が悪い。すべてをご存じだったのですね」
この狸おやじが。彼はすべてを知った上でエリザベータを神殿から連れ出したのだ。彼女がウィリアム・ゴールドバーグの娘でないことを百も承知の上で。
彼の楽しそうな表情の後ろで怒りがうずまいていた。この男はものすごく怒っている。自分の息子に大恥をかかせるほど。王国への忠誠を踏みにじるほど。
前ブルーウィング公はエリザベータを伴ってさっさと宴の会場を後にした。楽しそうなざわめきを背後に見ながら、馬車は暗い街中へと進んでいく。向かった先は貴族街をぬけた町中にある大きな屋敷だった。
「あなたにあってもらいたい人がいる」
屋敷に入ってから老公は彼女にそう言った。
「前にも言ったように、もう少し機を見て物事を進めようと思っていた。だが、情勢が情勢だ。あなたは、何が起こっていたのか、知らなければならない」
彼は屋敷の奥の扉を開ける。
密談用に作られた部屋と思しき窓のない部屋の中で一人の男が待っていた。
明らかに平民出身とわかるどこにでもいそうな一人の男だ。
「初めまして、エリザベータ様。わたしはお父上の料理人を務めておりましたダークと申します。今日はあなたにお話ししたいことがあってこうして参りました」
男はブルーウィング公と目線を交わした。とても一介の平民とは思えない不遜な態度だった。
「わたしはあなたにお父上のことを伝えるためにここにいます。とても長い話になりますが、聞いていただけますか」
男はまっすぐエリザベータを見ていた。真剣なまなざし。裁判で父が見せていたのと同じ覚悟を決めた目だった。
エリザベータはうなずく。これから耳にすることが彼女のこれからを変えてしまう予感に震えながら。