豚の矜持33 エピローグ

 水は冷たく心地よかった。

 彼はもう一度水に飛び込んだ。今度こそは獲物を捕らえるのだ。

 彼はここのところ素潜りで魚をつくのに熱中していた。釣りや上から銛で突くのも楽しいけれど、この季節は潜るのが一番だ。

 水底で獲物を探す。

 澄んだ水を透して魚が泳いでいるのがかなりむこうの方まで見えた。

 今頃母さんが探しているだろうな。頭の中にちらりと母親の怒った顔が浮かぶ。

 母のご機嫌を取るためにも大物を狙わないと。

 母親は彼がこうして勝手に外に出るのを嫌っていた。

 やれ、本を読め、文字を書け、算術を学べとうるさいのだ。

 他の子供達がそんなことをしなくても何も文句を言われないのに、彼だけそういうガクモンを身につけないといけないと言われる。

 一緒に遊んでいる子供の中で文字を書けるのは彼だけだ。友人のミーシャを一緒に文字の練習をしようと誘ったことがある。最初は乗り気だったミーシャは三日で飽きてしまった。

「父さんが、そんなことできなくってもいいって」

 ミーシャはしつこく誘う彼を邪険に振り払った。

「作物を育てるのにそんなものはいらないんだよ」

確かにそうだ。ミーシャのいうことは正しい。

 だから、彼も大いばりで母親にそう主張した。母親はかんかんに怒って、当分外に出してもらえなかった。

 友達が作物の育て方を学んだり、木の切り方を教えてもらったりしている間に彼はガクモンだ。

 彼はベンキョウよりも土を触っていたり、山を駆け回る方が好きなのに。

 土や木や周りのものたちは彼の友達だ。触れていると小さな声が聞こえてくる。

 彼がしかられて泣いているときも、大きな友達にからかわれているときも、彼らは小さな声で慰めてくれる。

 彼らは秘密の友達だった。

 小さいときはみんながその声を聞くことができていると思っていたが、どうもそうではないらしい。

 母親に話したら、そのことは秘密にしておきなさいと言われた。

 秘密というのはとてもわくわくする言葉だった。誰も知らない宝物を持っているようで、彼はとても気にいっている。

 魚には逃げられてしまった。一匹も捕まえられないなんて今までになかったのに。

 くたびれてしまった彼は水面で仰向けになって空を眺めた。

 水は土ほど彼に話しかけてこない。でも、こうしていると優しいささやきのようなものが体を包む。

 彼は一度もおぼれたことはない。どんな深い淵に潜っても、水は優しく彼を水面に運んでくれる。

 母親はいつもいっている。あなたは大地や水に愛されているのよ、と。

「あなたのお父様もとても愛されていたのよ。あなたはあの人に似たのね」

 彼には父親がいない。彼が生まれる前に死んでしまったという。

 それはとても残念だった。周りの友達にはみんな父親がいる。友達が父さんの自慢をしたり、父さんと山に行ったりするのを見ているとうらやましくなる。

 でも、彼にはおじさんがついている。おじさんは町に住んでいて、時々母親を訪ねてくる。いつもたくさんお土産を持ってきてくれるおじさんが彼は大好きだった。

 おじさんは彼にいろいろなことを教えてくれる。ナイフの使い方、罠の仕掛け方、どの草が毒草でどの草が薬になるか。猟師ではないけれど獲物を仕留めるのもうまい。弓矢や投げナイフは外したことがない。

 最近は彼に剣術も教えてくれる。剣術なんてここのあたりの子供は誰も教わっていない。彼だけの、特別な訓練だ。剣術の練習は好きだ。でも、そればかりやりたいというと、怒られた。

「ベンキョウもきちんとやらないと駄目だ。次に来るときまでにはここまで本を読んで暗記しておけよ」

 おじさんは怒るととても怖い。おなかがぎゅーっと縮まるような感じがしてくる。おじさんが怖い顔をするときは逆らってはいけない。おじさんは他の大人達のように殴ったり蹴ったりはしないけれど、どこの父親よりも強くて怖い人だと思う。

 そろそろ、おじさんがたずねてくる時期だ。彼は次におじさんと会う時をとても楽しみにしている。

 なぜなら、おじさんは馬の乗り方も教えてくれるといったからだ。村長さんのところにいる荷物を引く小さな馬ではない。おじさんが乗っているような大きなジョウヨウバだ。前におじさんと一緒に乗ったことはあるけれど、一人で乗るには早すぎるといわれていた。

 今日はどうも調子が悪い。彼は魚を捕まえるのをあきらめた。こんなことは初めてだ。

 森がさわさわと浮き足立っているような感じがする。

 何が起こるの?

 小さな友達からの答えはない。なんだろう、悪いことではないみたいだけれど。

 濃い緑の葉がさわさわとゆれる。彼は大きな岩の上で体を乾かしてから家に戻ろうと思った。まだ日は高い。早く家に帰ればお小言くらいですむかもしれない。

「ビリー、またこんなところで」

 うわ、赤毛の魔女に見つかってしまった。

 お姉ちゃんが川縁から倒木を乗り越えて現れた。

 逃げようとしたがあっという間に首根っこを掴まれる。

 これからお小言の時間だと、下を向いて覚悟した。お姉ちゃんのお小言は短いのだけれど、時々手が飛んでくるのがやっかいだ。

 だけど、今日のお姉ちゃんはとても焦っているみたいだった。赤い髪が汗で額に張り付いている。よほど急いで彼を探していたのだろう。珍しく息を切らしている。

「どうしたの」

「急いで帰るよ」お姉ちゃんは彼の手をぐいぐいと引っ張った。「いいから」

 機嫌が悪いのだろうか?いつもとちょっと様子の違うお姉ちゃんに彼はとまどう。

 お姉ちゃんと彼には血のつながりはない。お姉ちゃんの身分はめいどなのだそうだ。

 でも、絶対に違うと思う。彼の読んだ物語によると、いい召使いメイドはとても忠実で親切で何を頼んでもいうことを聞いてくれる。悪い召使いメイドは意地悪で嘘つきで主人をだまして悪さをする。姉ちゃんはそのどちらでもない。

 姉ちゃんは彼のいうことなど聞かない。彼にいつも命令していろいろなことをやらせる。姉ちゃんは彼に料理や洗濯、炊事を手伝わせる。彼のベンキョウをカンシするのもお姉ちゃんの仕事だ。彼がこっそり抜け出してもどこにいるのかちゃんとわかっていて連れ戻しに来る。どうやって彼の居場所がわかるのか、いつも不思議に思っている。

 きっと魔女にちがいない。魔法の力で彼の居場所を突き止めているのだ。だから、ひそかにお姉ちゃんのことを赤毛の魔女と呼んでいる。そのくらい怖い存在だ。

 でも、悪い魔女かといえば、そうではない。彼にいろいろなことを教えてくれる。火のおこし方、野宿の仕方、どのようにして食べ物を手に入れて食べるか。腐ったものの見分け方とか、お金をムシンする方法とか。一度、お姉ちゃんが食べ物を無断で手に入れる方法を教えてくれようとしたところを母親に見つかったことがある。母親は無言でお姉ちゃんをどこかへ連れて行って、当分お姉ちゃんは帰ってこなかった。

 ちょっと怖いけどお姉ちゃんのことは好きだ。彼女が危ないところに行かないように気をつけてくれているおかげで、彼は大きな怪我をしたことはない。いつも気を配って彼が大きい子供達にいじめられないようにしてくれる。

 まるで本当のお姉ちゃんみたいだ。

 今日のお姉ちゃんは彼がついて行けるぎりぎりの速さで歩いている。

「何かあったの?」

 ひょっとして、隣のおじさんがまたジコにでも巻き込まれたのだろうか。去年の今頃、おじさんは木の下敷きになった。あのときは大変だった。チマミレのおじさんが運び込まれるのを見ないように子供達はみんな小屋に閉じ込められた。大人達はみんなあっちに行ったり、こっちに行ったり。あれは怖かった。

 お姉ちゃんは彼をちらりと見下ろして、宙をにらんだ。

「あのね」何か言おうとして、彼女の目がぐるりと上を向いた。

「うん」

「あのね」

 お姉ちゃんはいきなりくるりと後ろを振り向いて肩をつかんでくる。お姉ちゃんの顔がぐっと寄ってきて、ちょっと驚いた。

「あのね、ビリーは、ビリーだから。どんなことがあっても、ビリーなんだからね」

 うなずくように強要されて、うなずく。

「あたしも、みんなも、あんたの味方だから」

 何のことかはわからないけれど、頭をがくがくと縦に振った。

 それを見てようやくほっとしたように、お姉ちゃんは笑った。

「よし、それなら、よし」

 なにがいいのかよくわからないけれど、お姉ちゃんが笑ったので、ほっとした。お姉ちゃんが怒ると周りの被害がすごいのだ。

「急ごう」

 つないだ手から伝わってくる暖かさが心地よくなってきた。よくわからないけれど説教されるのではないみたいだ。

 村に近づくと、子供達が寄ってきた。たしか、今日は山の畑に行っていたはずのミーシャもいる。

「ビリー、すごいんだよ。こっち来いよ」

「馬だよ、すごくきれいな馬」

「一緒に見ようよぉ」

 村の入り口にたくさんの馬がつながれているのがちらりと見えた。このあたりでつかっている荷物運び用の馬ではない。おじさんが乗っているような足の長いジョウヨウバだ。

 子供達が口々に見に行こうと彼を誘ったが、お姉ちゃんはそれを許さない。

「駄目、用があるから、駄目」

「ごめん、またね」彼は子供達に手を振った。「また、あとでね」

 誰か見知らぬ人がここを通った。

 小さな友達が教えてくれる。

 あの馬に乗ってきた人たちがここを通ったようだ。

 この先には彼の家しかない。

 彼は騒ぎながら馬の方に走っていく友達を振り返った。正直一緒に馬を見に行きたかった。

 小屋に入る前に、お姉ちゃんは立ち止まって彼の身なりを点検した。

 できるだけ服の汚れをはらって、まだぬれている彼の頭をごしごしと前掛けでぬぐった。髪を寝かしつけて、どうだろうかと案配を見る。

「ま、いいか」

 お姉ちゃんは深呼吸してから扉をたたいた。いつもそんなことはしないのに。足で開けるのに。彼は驚いてお姉ちゃんを見上げる。

「どうぞ」

 中から答えが返ってきた。見知らぬ人の声だ。

 扉が内側から開けられて、彼は知っているはずの自分の家をおずおずとのぞき込む。

 いかめしい顔をした立派な身なりの男の人と目が合った。

「こんにちは」

 挨拶をしたが、男の人は黙って彼の道を空けただけだった。

 小屋の中には場違いな人たちといつもの人たちが混在していた。

 正面に母親が立っていた。その横におじさん、それからこれまた立派な服を着た剣を下げた人。どうみても女なのに、男のようななりをしている。

 それから。

 彼はその女の人から目が離せなかった。

 まるで絵本の世界から現れたかのような雪の精が炉端のいつも母親が座っている場所にいた。

 銀色の雪みたいな髪の毛に深い淵のように青い瞳。町で買った小麦粉みたいな白い肌。雪の女王が現れたようだった。こんな暑い季節に、熱いかまどでとけてしまうのではないか。そんなことさえ心配してしまうほど。

 よくよくみると髪は無造作に頭の上でまとめられて、何も飾りのない乗馬服を着ている。服だけなら扉を開けてくれた男の人や剣士のほうがよほど立派なのに。その人のほうが明らかに人目を引いた。

 その静かな湖のような目がまっすぐ彼のほうに向けられている。彼は思わずつばを飲み込んだ。

「おまえが、ウィリアム?」

 女の人はとてもきれいな声でたずねた。

 彼はぽかんと口を開けて女の人を見つめるばかりだ。

 女はふと口元を緩めた。

「ウィリアム・エスタ・ファリアス・エルサナス・ゴールドバーグね。わたしの名前はエリザベータ・エリア・ファリアス・エルサナス。おまえの姉です」

 女の人は自ら名乗った。

「大きくなったこと。いくつになったのかしら」

「九つです」

 後ろで目を伏せている母親が答える。いつもの母親らしくないかしこまった態度だった。

「そう」女は満足そうにうなずいた。

「今日はおまえを迎えに来たの」

 彼の耳に秘密の友達がざわめく気配を感じた。小さなたくさんの声が女の声と混じって聞こえる。女の人はほほえみを浮かべたまま優雅な動きで立ち上がった。

「さぁ。いきましょう。お父様を殺した“世界”に復讐するために」

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