豚の矜持3 メイド

わたしはゲームの世界に入り込んでしまったのだろうか。

 定番の物語ならこうだ。異世界に転生した主人公は何らかのきっかけで転生前の異世界日本の記憶を思い出す。そしてゲームシナリオとして定められた人生の軌道を修正する。

 私は異世界から転生した記憶を持つ豚なのだろうか?

 いろいろと考えてみたのだが、わたしと豚公爵との関係は転生ではないような気がする。

 なぜなら私には死んだという記憶がないからだ。

 起きたらいきなり豚になっていた。

 ダンプトラックにひかれたり、電車事故にあったり、自殺したり…ありがたい神様に出会った覚えもなければ、超常能力を得た感触もない。

 そもそもこちらに転生してきた時の特典があるのならば、こんな豚の中に住み着いたりしない。同じゲームの登場人物でももっとましなキャラはたくさんいる。立場的にも、ヴィジュアル的にも…

 そもそもここはあのくそゲーと呼ばれたゲームの世界なんだろうか?

 豚と意識を共有させ始めて、すでに数日たっていた。何日かここで過ごしているうちに気が付いたことがある。豚に対する、周りの扱いのひどさだ。

 召使いや家令は慇懃無礼で、恐ろしく丁寧な取り扱いをしてくれるけど、ただそれだけ。決まり文句を口にするだけで、私的な会話の一つも交わさない。

 食事の支度をして、部屋の掃除をして、ウィリアムに服を着せて、椅子に座らせて放置をして、また食事をさせて…

 あれ? 豚は公爵なんだよね。お貴族様なんだよね。領地持ちのはずだよね。

 領地の経営とか、町の視察とか、書類仕事とか、なにもないの? 貴族としての社交とか、狩りとか、夜会とか、お茶会とか、しなくていいの?

 ドラマの中で繰り広げられるお貴族様の優雅な生活をイメージしていたわたしには何もしないまま放置されている豚の状態はショックだ。

 豚公爵の記憶の中にも最近そんなことをした覚えは一切ない。ただ、食って寝て、食って寝て・・・ただの怠惰な豚じゃないか。

 ゲームの中の豚はいろいろ動き回っていた。悪だくみをしたり、悪徳商人と会合をしたり、視察と称して女をさらいに行ったり、いろいろアクティブに活動していたじゃない。

 ここの豚は基本動かない。置物のようにじっとしている。それをむっつりと愛想もない召使い達が植木に水をやるように世話をする。どこかに出かけることもない。誰も訪ねてこない。生活は寝室とその隣の部屋だけで完結しているし、なに? 新手の引きこもり生活?

 暇すぎる。退屈だ。そんな生活をひどいと感じない豚も豚だ。

 こんな生活が当たり前だと思っている。

 何かしようよ。ゲームの中の豚は、とても忙しそうだったよ。やってることは悪いことばかりだったけどね。

 とはいえ、ゲームの豚とはかけ離れていて、助かっているところはある。豚の悪事をそのまま再現するにはわたしは小心者すぎる。18禁版の豚のように毎夜乙女を拷問にかけたり、部下の首をはねたり、暗殺の計画を練ったり、そんなことをされた日には精神が持たない。発狂してしまう。

 でも、何にも関心も持たない、興味もない、精神が浮き立つこともない、ただただそこにいるだけ、これも人としておかしい。せめて、ダイエット。そう、少しでも体を動かそう。

 わたしは無理やり豚のストレッチもどきをやらせた。ちょっとやっただけで何キロも走ったように苦しくなった。元の体の主は相変わらず我関せずだ。豚が協力してくれたら、少しは楽になるかもしれないのに。

 豚はわたしという異物のような記憶が入り込んでいるのに、それすらもあきらめて甘受している。普通嫌がったり抵抗するだろ? 現にわたしは豚であることへの嫌悪感が消せない。目が覚めて、豚の肉体にまだいることを確認すると落ち込んでため息が出る。

 でも、そんな私の嘆きを感じても、豚はただ、ああ、と思うだけ。自分のことを豚とかクズとかさんざん言われても反応が薄い。

 今や私の精神も豚の無気力に汚染されつつある。動くのが面倒だ。部屋から出るなんてまっぴら。体重いし、思ったように動かないし。

 豚の記憶をさかのぼってみると、若いころの豚はまだましな生活をしていたようなのだ。確かにデブではあったが、扉を通り抜けるのも苦労するほどの太さではなかった。ちゃんと外出もしていたし、仕事らしきこともしていた。あまり褒められたことではないがその手の女性と遊んだりもしていた。

 全く屋敷から出ず、閉じこもりっきりになったのはいつからなのだろう。豚の記憶はとてもあいまいになっている。はっきりとした時間の流れがまったくつかめない。

 絶対におかしい。豚は何かの病気にかかっているのだろうか。まだ若いと思うが、ぼけてきているのだろうか。そんなことを私は考えるが、豚はぼんやりとそうだね、と同意するだけだ。同意するだけで、自ら動こうとはしない。動けないものと思っている。

 本当にこれはゲームに出てくるウィリアム・ゴールドバーグなのだろうか。おかしいよね、こんな生活では王国を揺るがす悪事をたくらむことなんかできない。食って、寝て、食って、寝ての繰り返しだ。

 最高のニート生活をありがとう、ビバ、究極の引きこもり!

 などといっている場合ではない。

 私は知っているのだ。

 ゲームの世界は2年間限定である。

 主人公ヒロインが入学して、卒業するまでのたった二年。

 その間に主人公ヒロインは複数のお相手候補と恋愛ゲームを繰り広げる。バッドエンディングがただある中でグッドエンディングを目指す。相思相愛で卒業したらゴールだ。そして恋の邪魔をした悪徳令嬢は断罪される。

 そのついでに、黒幕だった公爵家は取り潰し。公爵と公爵夫人もまとめて処刑される。

 そう処刑される。

 豚夫妻に関しては死なないルートはない。どのルートをたどっても、だ。暗殺、火あぶり、縛り首、一番ましなもので鉱山送りの上衰弱死。どれかを選んでくださいといわれても選べないラインナップ。

 仮にこれがゲームの世界だとする。

 この前エリザベートが入学のあいさつにやってきた。

 エリザベートは主人公ヒロインと同級生という設定だから、このままゲームの進行通りに話が進めば2年後には豚は処刑される。豚の体に寄生しているわたしもたぶん道連れだろう。

 何とかしなければ。

 焦る私の気持ちも豚の無気力さに伝染してか、少しずつそがれていく。

 このままじゃまずいよね、まずいけど…ま、いいか。

 いいか、じゃない。

 生死を超えた悟りの境地に達している無気力豚を奮い立たせて、歩行訓練から行ってみる。とりあえず、この部屋を出て外へ…

 部屋の外に出てみたが、召使も誰もいない。豚の世話をする時間以外はこの棟には誰もいないようだ。廊下には埃が積もり、明らかに何週間も掃除をしていないことがわかる。

 これでいいのか? ゴールドバーグ家?

 這うような速度で、庭に出てみたが、庭にも人の姿はない。美しく切りそろえられた木が風に揺れているだけだ。

 はぁ、外に出るだけで一か月分の運動をした気がする。

 体が悲鳴を上げている。関節が体重の重みに耐えかねてきしんでいる。

 死ぬ、このまま行けば、わたしは確実に死ぬ。処刑なんかされなくても太りすぎで死んでしまう。

 ここまでわたしが悩んでいても、豚は習慣で大量の食事をとる。今日も食べてしまった。そしてまた食事の時間だ。

 いつもは食事が終わると、皿を下げておしまいのはずだった。今日は少し違う。食事が終わると、髭家令がこほんと咳払いをした。

「ウィリアム様、今日は新しい侍女を連れて参りました。はいれ」

 扉を開けて、一人の女性が進み出た。頭を垂れ、顔を伏せたまま、髭男の足下に膝をつく。

「奥様から任じられましたウィリアム様個人付きの侍女です。いかようにもお使いくださいませ」

 豚は戸惑ったように寝台の上で身じろぎをする。髭が促すと娘は震える声で挨拶をした。

「きょうからおせわになります。ふゆきとどきなところはございますが、すえながくよろしくおねがいいたします」

 緊張からか声が枯れている。体の震えも隠せない。

「顔を上げよ」ウィリアムが小さな声で命令した。

「顔を上げよ、とおっしゃっている」

 髭男が命令し直す。

 娘はおずおずと顔を上げる。

 わたしは驚きのあまり彼女の顔から目が離せなくなった。

 見慣れたゴールドバーグ家のお仕着せに身を包んだ若い娘だった。髪を覆うベールの間から見える髪の色は濃い茶色、目も木の幹を思わせる濃い茶色だった。年の頃はすでに中年にさしかかっている豚と比較すると子供といってもいい年齢だ。

 わたしは彼女を知っていた。

 彼女はあのゲームをプレイしたものは一度は見たことがある有名なモブの女性だった。

 豚の出てくるシーンの片隅に常に無言でたたずんでいるメイド。いつも同じ止め絵で、目に光がない侍女だった。その容姿の愛らしさ以上に明らかに病んでいる雰囲気が、強い印象を残すモブ女性だった。

 なぜ、彼女が感情を全く表さないのか、その理由がわかるのは18禁版のほうだ。

 突然意味もなく始まる豚とこの女とのからみのシーン・・・

「どうかお情けを、お慈悲をくださいませ」「よいではないか、よいではないか」

 どこの悪代官と町娘だよ。

 もうそっくりそのままの場面が展開される。お子様は見てはいけません。

 豚とのからみなんて誰得よ、といわれながらも、全プレイヤー、一度は見たことがある絵である。

 だって、このスチルも手に入れないと全スチルコンプリートできなかったんだもん。コンプリートしないと真ルートが開けないっていわれてたんだもん。

 しかし、登場が早過ぎはしないだろうか。彼女の出番はここだったっけ? こんな序盤で出てきたキャラだったっけ? 今はまだ序盤も序盤、悪役令嬢はまだ学園にも行ってないよ。

 わたしの狼狽にも豚はいつもの無気力豚だった。

 新しい侍女か。

 なんの感動もない。こんなかわいい子を前にして何も思わない。豚にとって唯一反応する人物は娘のエリザベータだけ。他はそれこそモブ扱いだ。

 わたしが必死で先のゲームの展開を見せると、鼻で笑うような気配が伝わってきた。

 当然だろう。妻に任じられた・・・というのはそういうことなのだから。この娘はそういうことのために送り込まれてきた女なのだから。

 そのあっさりとした認識がやはりこれは18禁ゲームの世界なのだと私に教える。

 手を出そうと何をしようとかまわないんだよ。うん、胸が大きいところは合格だね。もう少し髪の色が薄ければいいんだけどな。私は無感動に娘を値踏みする。

 前にもこういうことがあった。その娘はいつの間にか姿を消してしまった。今度の娘はいつまで持つだろうか。

 なんだか怖いことを考えているのだけれど、大丈夫だろうか。どうやら手出しをしないと侍女から外されてしまうようだ。そのあと、娘達がどうなったのか、豚は知らないという。ゴールドバーグ家、闇が深い・・・

 確かにかわいそうだな。豚はもじもじと体を揺さぶった。正直気乗りしないのだが、気に入っていると嘘でも言わないといけないかな?

 まって、手を出すつもりなのか?それは絶対に駄目だ!

 わたしは必死で豚を止める。

 この娘に手を出すと、豚的に悲惨なルートまっしぐらなのだ。

 エロゲーに意味を求めても仕方がないのかもしれない。なぜだかわからないがこの娘の兄は腕利きの暗殺者という設定だ。

 妹をひどい目に遭わせた豚をこの兄は許さなかった。処刑を控えた豚のところに忍び込んで、豚を滅多刺し、一晩かけて切り刻むのだ。

「まだまだ夜は長いからな。たっぷり時間がある」「$%&‘’!!!!」

 この作品の中でも一二を争う凄惨なスチル、豚八つ裂きエンドがまっている・・・見ても楽しくない絶叫豚のドアップが見られる、それはもう、いろいろな意味でひどいエンド。

 でも一度は見なければいけない。

 なんでこんなところに絵を何枚も使うの? 本当に誰の趣味? といいたいほど大量の絵が手に入るルートなのだ。見たら速攻で記憶を消去したくなるのだけど。

 ゲームの話はとにかく、彼女が実際にいるのなら彼女の兄もここにいるのかもしれない。彼女の兄の恨みをかって、なますになる最期だけは絶対にごめんだ。

 それは、大丈夫だ。豚が不機嫌に私の妄想を打ち消す。なぜなら、私は・・・豚はそこで記憶を隠そうとする。よほど恥ずかしい記憶なのか・・・その記憶をちらりと覗いてしまったわたしは見なかったことにした。いえ、なかったことにします。

 今の豚には18禁ルートに移行するのは無理だった、とだけいっておく。きっとデブデブ太っているせいだとおもうのだ。うん、頑張ってダイエットに励もうね

「・・・・・・ウィリアム様?」

 髭家令が声をかけてくる。

 かなり長い間豚公爵は黙り込んでいたらしい。女性は再び下を向いてしまった。

 あいまいにうなずくと、家令が勝手に豚語を翻訳してくれる。

「勤めに励むようにとの仰せだ。いいな」

 娘はもっと深く頭を下げた。まだふるえている。

 いったい私のことを何と思っているのだろう。化け物とでも吹き込まれているのだろうか。確かに規格外のデブではあるが、根は優しい豚なのに。

 頭の隅で本物の化け物だった18禁版の豚公爵が顔を出しかけたが、慌てて消し去る。いいんだ、ここの豚は無気力豚だ。何をしても文句を言わないし、エリザベータに絡まなければおとなしい豚だよ。

 家令はほっとした様子を隠さない。ようやく豚公爵のお気に入りができて、仕事が一つは足せたと思っているのがモロわかりだ。彼女を生け贄にして、自分たちは気味の悪い豚人形の世話をサボってしまおうとか思っているのだろうか。

「これからはこのものが主様の身の回りのお世話をすべていたします。何なりと」

 家令は深く一礼して娘を残して去る。

 あとには下を向いた娘と、どうしていいのかわからない私だけ残された。

その娘は有能だった。

 なぜ、豚の登場シーンにいつも彼女が登場していたのか納得がいく。他の侍女が嫌々やっている仕事も指示に従って、てきぱきとこなしていく。早いよ。それに、丁寧だ。食事の支度や後片付け、部屋の掃除などあっという間に終わらせる。

 他の侍女、いらないのではないかな? 

 次の日もわたしは頑張って運動をすることにした。昨日の疲労が抜けていない。大丈夫か、豚の体?

 わたしが散歩に出かける気配に隣の部屋にいた娘が現れた。彼女は常に隣の部屋に滞在することを命じられているらしい。昼でも夜でも奉仕できるように、ということなのか。

 私が亀のようにのろのろと外に向かうのを娘は黙ってみていた。

 今日は少し強度を上げてみようかと走るという動作を試してみた。

 しかしこれがいけなかった。

 膝が痛い…そういえば走るという動作は歩くという動作な何倍も間接に負担がかかるのだった。普通の体重でもそれだ。今の体重でちょっと無理をし過ぎたのかもしれない。

 行きの何倍もの時間をかけてゆっくり部屋へ戻った。

 部屋に戻ってほっと息をつく。膝の痛みが耐えられなくなっていた。

 体のあちこちが痛いのには慣れている。腰や関節の痛み。鈍い頭痛、しびれるような手足。絶対糖尿病だよな。私は椅子に座って浅く呼吸した。

 荒く呼吸していると先ほどの娘がワゴンに昼食の一部をのせて現れた。

「あの、家令様から、私が、先に一人で食事のお手伝いをするようにと・・・命じられました」

「ああ」

 豚は小さくうなずく。家令ならばその小さな合図を拾えただろう。だが緊張しきっている娘にはわからない仕草だったようだ。

「あの・・・私・・・」

 娘は立ち尽くす。

 そこへ遅れた家令がやってきた。急いでいたらしく息が上がっている。

「申し訳ありません、ウィリアム様。すぐに準備いたします」

 髭は娘を責めるような目で見てから、あわてて卓にならべていった。

「気にしなくていい」

 そんなに腹も減っていないし・・・そう付け足そうとして娘にこちらの言葉が届いていないことに気がつく。青い顔をして震える手で皿をならべている女には豚の小さい声など耳に入らない。

 いつものように昼食を食べる。食べながら、ふと、娘があまりにもやせていることに気がつく。お仕着せからのぞく手は骨が浮き出ており、足もこれで立っていられるのかと心配するほど細かった。きちんと食べているのだろうか。

 半分ほど食べてから、食事をやめる。拡張した胃袋はもっともっとといっていたが、ここは我慢だ。

「君はいつ食事をとるんだい?」

 わたしは娘に尋ねる。

 家令が少し眉をひそめた。今まで豚は召使いの生活になど興味を持ったことは一度もなかった。まるで、そのあたりにおいてある食器や掃除道具のようにいつもそこにあって仕事をするだけのもの、気にもかけていなかったのだ。ちょうど、わたしがスーパーで買う肉がどこから来たのか気にしなかったように。

 だが、今の私には気になる。この娘はあまりにも細すぎる。顔色も悪い。あまり栄養状態がよくないのだろう。倒れられては困るのだ。彼女に何かあれば、そのとき彼女の兄は・・・考えるだに恐ろしい。

 もう一度質問を繰り返すと、髭家令は娘に質問を投げかける。

「・・・はい、充分にいただいております」

 娘は建前の答えを返してきた。だよね、食べてないなんて言えないよね。

 私はため息をつく。

「あー、この残りを片付けて、いや、そうじゃなくて、その子に食べてほしいのだけど・・・」

「ウィリアム様のお食事を、ですか?」

 さっと皿を下げようと手を伸ばしかけた髭が繰り返す。

「そう」

 豚がこくりと頷く。髭の手が止まる。何か失態をしたのではと青くなりかけている娘と豚を見比べているよ。

 しばらくすると、髭の顔に薄い笑みが浮かんだ。

「わかりました。そういうことでございますね。おい、おまえ、公爵様がもったいなくも食事を分けてくださった。ありがたくいただきなさい」

 どういうことなのかわたしにはよくわからなかったが、髭家令は一人で納得したらしい。

「わ、わたしがですか?」

 メイドの声が震えている。

「そうだ」

 何かよくわからないが、二人の間では共通の理解があるらしい。女性は恐がり、それを見た家令は満足した。いったい何に?

 よくわからないけれど、何かのプレイの一環なのではないかな。控えめに豚がおしえてくれた。それって、何? 食べ残しをお食べ、とかいうアレですか?

 豚はこういうことには疎いのだと少し恥じらいながら告白する・・・って豚の恥じらいって何ですか?

 食べ残しを食べさせる、屈辱系のアレだと思われたのかな。

 でも、食事は豪華だし、手をつけてないものも多いよ。それでもいやなのかな。わたしが豚だからいやなのかな。

 まさか、毒入りなんてことはないと思うのだけど。

 いやいや、それもあり得るかと思ってしまうところがこの世界だ。

 さすがにそれはないと思う。我が家のものたちが・・・そんなことはしない・・・はず。ウィリアムの小さな声が否定する。

 でも豚にこれだけ大量の食事を食べさせているのも毒を食べさせているのと同じだと思う。豚は惰性で食べているだけで、けして食事を楽しんで食べているわけではない。ただ一人、黙々と目の前の皿を片付けていく。出されているものは食べなければいけないという義務と責任と・・・それだけだ。それは一緒に食事を見てきた私だから断言できる。

 私はまだ手をつけていないパンや肉炒めを娘の前に押しやった。食べかけの卵料理の皿は自分で片付けることにする。

 娘は、最初はためらいがちに家令の顔色をうかがいつつ、パンを食べていた。本当はおなかがすいていたのではないかと思う。だんだんと食べるスピードが上がっていく。

 あまりにがつがつと食べるので、のどを詰まらせるのではないかと心配したくらいだ。

 これもまた今日手をつけていなかった果実を搾った甘い飲み物を前に置いてやる。

「あ、ありがとうございます」

 目の前の皿をからにした女は礼を言った。

 娘の目が探るようにこちらを観察していた。

「君・・・」

 そう呼びかけてからまだ名前を聞いていなかったことに気がつく。

「名前はなんというんだ」

 娘はとても不思議そうな顔をしたが、素直に答えた。

「クラリスです。クラリスと申します」

 次の日もクラリスを連れて散歩という名のダイエットに向かった。ともかくなんとしてもやせないと。この体では何もできないよ。

 その日はよく晴れた穏やかな日だった。豚はぼんやりと昔は庭を散策することが好きだったことを思い出す。庭を散歩して植物を眺めるのが好きだったのだ。

 わたしもそうだった。わたしは小さなポットでも育つ強いハーブを買ってきてはベランダに並べて楽しんでいた。

 思いもかけない共通点を見つけて豚が少し浮ついた気分になっている。小さなかごの中で野菜を育てるか・・・なんて面白い趣味なのだろう。

 豚の中には食料を畑で育てるという当たり前の感覚がなかった。知識としては知っているのだ。でも、実際に育てた経験がないというか、なんというか。

 育ててみるというのも面白そうだな。かすかな興味。だけどこれが大切だ。 

 豚がその気になってくれないとわたしには何もできない。

 体を動かすのには豚側の心とわたしの心の二つが必要だとなんとなくわかってきていた。豚の協力がないとわたしもやる気が出ないのだ。今のところわたしの心のほうが主導権を握っているが気力を振り絞って動いている状態だ。もう精神的にくたくただよ。

 とにかく、少しでもやせて、表を歩けるようにならなければ・・・

 今は転がった方が早く移動できるかもしれないと思うときがあるからな。

 もう少し動けるようになったら、植物を植えてみようよ。気力のない豚を誘う。小さなプランターでもいい。ほんの少しの土でも植物は育つ。私の育てていた野菜の記憶を見て豚の心が密かに動くのを感じる。

 植物を育てる、というのは運動をするよいきっかけになるかもしれないと思う。

 豚の記憶によるとこの先には別邸があって豚の妻とエリザベータが住んでいる。

 そういえば豚は妻を何年も見たことがなかった。

 妻はいったいどうしているのだろう。

 豚の記憶の中では嫁はほっそりとした美しい娘だった。わたしの覚えている豚嫁のスチルはウィリアムよりも少し小柄な豚だった。まぁ、巨体だ。

 夫婦ともによく似た体型で、どうやったらエリザベータ様のような美しい娘が生まれるのかといわれていた。

 エリザベータも年をとると豚になるんだよ、なんてつぶやいた奴が、エリザベータ様命のファンにたたかれていたのを覚えている。

 その別邸の庭に馬車が止められていた。

 お仕着せを着た男女が二列に並んで道を作っている。

 それを見たわたしは思わず植え込みの影に入る。この巨体が無事に隠れているかどうか・・・微妙なところだが。

 隠れなければという気持ちに駆られてしまった。

 隠れる必要はないのに、見ているのが後ろめたい気がしてついつい逃げてしまった。

 これから起こることが見たくないという思いと、そんなわたしをいぶかしむ思い。

 予想したとおりだった。

 黒服の男が丁重に押さえている扉の向こうから現れたのは娘のエリザベータ。その後ろを巨体を振るわせて豚妻がついてくる。

 娘は頭を上げてまっすぐ前を見ていた。周りの人が居ることにも頓着せず、ただひたすら行く末だけを見つめている。

 氷の女王、その瞳と髪の色からつけられたあだ名は伊達ではなかった。彼女の何者も寄せ付けないりんとした空気はこれだけ離れても伝わってくる。誰をも信頼しない、誰も頼らないその姿は心を振るわせるほど美しい。

 だが、私の胸はちくりと痛んだ。その人を引きつける美しさで彼女が何をするか、そしてどうなるかを知っているからだろうか。まるでじくじくとしみ出す汚水のように痛みが心を侵食していく。

 純粋にエリザベータを見て喜んでいる豚公爵にはみせたくない。そう強く思う。

 こちらを見てほしい。豚の心は懇願していた。愛しい娘、自慢の娘にこちらを見てほしい。

 だが、わたしは物陰に身を潜める。豚の心の叫びに耳を閉ざす。あの瞳で見つめられたら、きっともっと胸が痛くなるから。

 娘はいっさいこちらを顧みることはなく、馬車に乗り込んだ。

 馬車はそのまま娘を乗せて走り出す。大勢の召使いと、豚嫁をおいて。

 わたしは物語が一つの節目を迎えたことをしる。

 彼女はこれから王立学園に入学する。並み居る有力な師弟を誘惑し、この国を混乱させる未来のために。

 そして豚に破滅をもたらすことになる。わたしを道連れにして。

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