娘を見送った日、さすがの豚もこたえていたようだ。
豚の心がさざ波のように揺れていた。いつも半分寝ているような豚の意識が私の痛みと連動している。
初めて豚の心と私の心が共振していた。体は一つになったとはいえ、私の記憶と豚の記憶は同時に存在する別の人間だった。
それが今回のエリザベータの入学では、互いに同じことを同じように感じている。私の痛みは彼の痛みであったし、彼の怒りにも似た感情は私の心を燃え上がらせていた。
おかしい。
なぜ、娘の晴れの旅立ちに私は立ち会えない?
なぜ、娘はあんな表情をしている?
あの子はあんなに冷たい表情をするような子ではなかった。
豚はわが子の変わりようにショックを受けていた。その心を私はそのまま受け取っている。
ゲームをやっているからあのエリザベータ様が標準のエリザベータだとわたしは思っている。豚の記憶にある、愛らしいエリザベータはもう別人だ。エリザベータ様はあの高慢なところがいいのだ。ニコニコと機嫌よく笑う彼女の姿なんか連想もできないよ。
かといって豚の記憶がおかしいとも感じていない。豚の記憶もまた正しいのだろう。
氷姫と呼ばれたエリザベータ様と、お父様とはにかむエリザベータ。
何かが変なのだ。ここと、ゲームの世界、似て非なるものを感じる。
わたしがおかしいと感じていた感覚をいまや豚公爵も共有していた。
本当にここはゲームの世界なのだろうか。
ゲームならば入学式から始まるはずだ。そこに確か豚夫妻も出席していたような気がするのだ。
入学式? なんだ、それは…豚は疑問符をつける。
私はそれを彼に説明した。
学園に入学するための儀式か。そんなものは、昔はなかったな。
って、豚も卒業生なのかい。
え? 男子校?
女や平民はいないだって?
それは、もはや別の種類のゲームじゃないか?
腐ったにおいの漂う設定はさておき、今の学園はは男女共学だ。平民も入学を許されている。
身分の低いにもかかわらず入学を許可された主人公ヒロインは、両親に付き添われることもなく王立学園に入学する。華やかな同級生に気後れしながらも、学園の門をくぐる。それがオープニング直後のイベントだ。
そしてそこで早速何人かの攻略候補と出会うのだ。
もちろんエリザベータもその場にいる。新入生の代表として挨拶をするはずだ。
エリザベータがそこにいるのか。私も参加したい。
突然、豚の心が主張を始めた。
私もその入学式に参列したい。そこでエリザベータと会いたい。
え? いきなりそこですか?
豚には主人公ヒロインの恋の行く末などどうなろうと知ったことではないようだ。
なぜ、私が参加できない。なぜ、私のところにその話が来ない?
豚だから…
身もふたもない理由だが、多分そうだ。この動くことも難しい体でどうやって入学式に参加するつもりなんだろう。
馬車に乗るのも一苦労。そこから先、会場に行くのにも何時間もかかりそうだ。そもそもこの豚をのせられる大きい馬車が存在するのだろうか?
私は公爵だぞ。それなのに参加できないなんて。
豚はかんしゃくをおこす。
豚が怒るところを初めて見た。怒った豚は頑固だった。
とばっちりは食事の支度に来た家令に向けて爆発する。
「そのようなことを申されましても、ウィリアム様」
にらもうとする豚に男は涼しい顔をする。
「出席しないと言われたのはウィリアム様ではありませんか。王室からのお誘いを一度はお断りになりながら、再び出席すると言われましても」
王室という魔法の言葉に豚公爵の怒りはしおれていく。
いやいや、入学式の話を髭から聞いたことなんかないって。絶対口先だけの言い訳だと思う。そんな話をした記憶なんかない。というか、普通の会話した記憶すらない。
しかしもう一押しと思っても、すでにへたれた豚はいつものおとなしい豚に戻ってしまっていた。
私に参加してほしくないのだろうか。こんな体だから、出られないのか。
後悔とかすかな疑い。あまりの落胆ぶりにこちらまで暗い気分になってしまう。
おいおいおいおい。
いまさらゴールドバーグ家の異常さに気がついても仕方ないでしょうに。豚があまりに自虐と自己嫌悪のドツボコンボにはまっていくのでわたしのほうが焦る。
そんなに落ち込むことないって。もう少し体重落として動けるようになったら、学園を訪問して様子を見に行けばいいじゃない。そう、外からでも覗くことができれば娘の姿を見ることができるかもよ。
その日から豚は更生した。
いまだぼぉっと無気力で無感動なところは残っているが、運動しようとするわたしに協力するようになった。互いの情報も前よりも自然に交換できるようになっている。
わたしも豚になってしまったことを嘆くのはなるべくやめるようにした。自分のことを豚というのも何だから、公爵とかウィリアムとかと思うようにした。それでもついつい豚公爵と思ってしまうのだけど。
ダイエットと体力作りは少しずつ協力して進めている。
いきなり食事を減らすのもおかしいので、加減しながら徐々にだ。
ここの家の人間は信用できない。
私の意見に豚も、あ、失礼、ウィリアムも同意しつつある。
とはいえ、豚公爵を待つ未来の惨事について豚はまだ信じていない。様々なシナリオや結末を見せても、相変わらず他人事にように反応が薄い。
ダイエットも兼ねた散歩がてらにゴールドバーグ邸のあちこちを探索して回った。
後ろからクラリスもつつましやかについてくる。
わたしのお気に入りということになってしまったからか、彼女もここに閉じ込められている形になってしまった。本当に彼女には申し訳ない。
あんに家に帰りたいか聞いてみたのだけど、断られてしまった。なにか、事情があるのだろうか。
最初はひょっとしたら彼女もわたしのような存在に憑依されているのかもしれないと思っていた。しかし、数々のわたしのほのめかしには全く反応しない。
彼女はあくまでここの住人のようだ。
わたしの他にも取り憑かれた人はいるのだろうか。今まであった人は皆ここのことしか知らない人ばかりだった。
広い邸内なのにがらんとして人気がなかった。
召使いたちが掃除をしているのはウィリアムが住んでいる一階の一部のみ。それも使わない広間や居間は鍵がかけてある。住んでいるのは豚公爵と豚の餌を作る料理人。他の召使いたちは家令も含めて別邸のほうから通っているらしい。
ゲームの中ではもっとたくさんの人がいたはずなんだけど。
豚の館はいろいろなことに使われていた。使い回されていた。
危ない密談から、危ないものの取引、危ない遊びともう悪の巣窟とかしていた。特に地下室などは危ないおもちゃがたくさん・・・人形姫と遊ぶスチルもあったな。
ゲームとのあまりにもの違いにわたしはちょっとついて行けない。
なぜ公爵が閉じ込められているのか。このことに関する豚の記憶はおぼろで全然当てにならないし、召使いたちもいないので噂話も聞くこともできない。鍵の閉めてある部屋も多くて、目的地にまっすぐにたどり着けない。特に料理人のところへはなぜかぐるりと館をまわっていかなければいけないようになっている。できた料理だけが狭い隙間を介してやりとりされるという有様だ。
二階は鍵もかけていない部屋ががらんと並ぶ。家具も何もない部屋がいくつも続いているのを見て公爵自身も驚いていた。以前はきれいに整えられた客間が並んでいたはずなのだ。家具が残っている部屋にも埃が厚く積もっている。
さみしいものだな。
昔はあれほどたくさんの人を迎えていた館なのに。
おそらく今、豚婦人が住んでいる別邸がゴールドバーグ家の中心になっているのだろう。そちらに踏み込む勇気はない。
こっそり忍び込むなんて、絶対無理。この体型だ。どこかで見つかってしまう。
もっと、もっと動けるようにならなければ。ダイエットだ、ダイエット。
「馬車を出してくれないか」
豚がそう切り出した時、わたしもクラリスも家令も驚いた。
「は?」案の定いぶかしげに聞き返される。
「馬車を出してほしいのだよ。娘の学校を見に行きたいのだよ」
小さな、小さな声で懇願する。
「そう、おっしゃいましても・・・」
やはり当然のように家令はしぶる。
「娘がどうしているのか心配で心配で・・・」だめかもしれないけど、粘ってみる。
「すぐには、ちょっと・・・」まぁ、そうだろうな。
「少しだけでいいのだよ、少しだけ・・・」
あわれっぽく豚は鼻をすすった。意外に豚、演技派だ。
「わかりました、奥様にお話ししてきます」渋々家令が譲歩した。
さて、どう転ぶか。下手をすると今よりもっとひどい地下室生活が待っているかもしれないので、ちょっとどきどきする。
その次の日、館の前に見覚えのある馬車が止まっていた。
娘の乗っていた馬車だ。
「公爵様、馬車を準備しました」
はやい。あともう何回か泣きつかないと聞き入れられないかと思ったが、あっさり望みは叶えられた。外出用の服とおぼしき派手な服を着せられて、馬車に押し込まれる。家令もついてきた。
「どこに行かれますか? え? 学園?」
明らかにやる気のない御者は顔を背けて舌打ちをする。
この豚やろう、悪態が聞こえてくるようだ。
馬車はかろうじて髭家令の乗れるほどしか空いていなかった。まさに豚専用馬車。頑張ってやせるように努力していたが、あまり体積は変わらなかったのかもしれない。
隅のほうで小さくなっている家令は無言で無表情だ。仮面をかぶっているかのように表情を見せない男と二人きり。きまずい。今度からコイツではなくてクラリスが付いてきてくれないだろうか。
豚公爵は娘と会える期待でうきうきしていたが、わたしはそこまで楽観していない。たぶん会えない。会えないとわかっているから馬車を出してくれたような気がするのだ。
それに、娘と会ってどうするよ。この前も会話が続かなくて困っただろうに…
彼女のふるまいを見ていると、絶対嫌われているよね。ただでさえむつかしい年ごろの娘なのだ。自分の体型と容姿を鏡に映してみてみようよ。
案の定、学園の入り口で丁重に馬車は止められた。ここから先に入るためには王室の許可がいるらしい。
行事があるときは例外的に許可されるが、それ以外はたとえ親兄弟といえども立ち入りは不可、それが王立学園の法。
そう、ガツンと無表情な門番につげられる。
豚はそれを聞いてえらく落胆していた。でも王家を盾に出されると引き下がるしかない。いくらゆかりがあるとはいえ一貴族、王家の威光には負けてしまうものらしい。
渋々馬車は来た道を戻る。それ見たことか、という御者の顔つきだ。
そのとき目の端に何かがとまった。
「ちょっと待ってくれ」
豚がめざとく見つけて、馬車を止めさせる。いやぁ、豚の小声をこのうるささの中でも聞き取った髭男、地味にすごいぞ。
「あの者たちは何だ?」
見ると手に道具を持った男たちが裏門からはいっていくところだった。
「あれでございますか・・・あれはたぶん日雇いの庭師ですね」
梯子に枝切り鋏や背負い籠、おそらく庭師なのではないかと推測する得物を持った男たちが続々と門を潜り抜けていく。
「ひやといのにわし?」
「はい、臨時雇いの庭師ですよ。人手が足らないときにああやって外から人を呼ぶことがあるのです」
そうか、と口の中でつぶやいた豚。
もしかして、もしかしますか? まさかですけど、まさか?
「馬車を止めよ」
驚く髭。でも、忠実に復唱する。
「馬車を止めよ」
家令の命令にこれまた目をむく御者。いったい豚公爵が何をするのか、驚いているようだ。
御者と髭の助けを借りてなんとか馬車から這い出た豚公爵は、道具を持った男たち第二弾に声をかける。
「もし、その方ら」
小さな声でたぶん聞こえなかったと思う。
しかし豚公爵は彼らの注目の的だった。いかにも高級そうな馬車。その中から引きずり出される豚男・・・その異様な光景に男たちの目は集中していた。
「その方ら・・・」
豚は口ごもる。なんと話しかけていいのかわからないのだ。
娘に会いたい一心で行動したものの、詰めが甘い。甘すぎる。不幸にも豚の助けになる従僕はいない。誰一人助けてくれる人はまわりにいない。
しかたない。わたしは覚悟を決めた。豚にも覚悟を決めてもらった。この際結果は考えない。どうなってもわたしはしらない。
「大変申し訳ないのですが、私もその仕事に混ぜていただけませんか」
私は丁寧に頼んだ。
周りの空気が固まった。
男たちは正気を疑う目でこちらを見ている。
「申し訳ない。私もその仕事がしたいのです。もしよろしければ、どなたか代わっていただけませんでしょうか」
豚の考えたことは単純だ。
学校の庭師? 彼らは堂々と学校の中に入ることができる。そうだ、自分も紛れてはいってしまえ…そうすれば娘に会えるかもしれない…
いや、一般人ならそれでいいんですけどねぇ。自分の体型も考えてほしい。なんといっても豚だよ。筋肉隆々とした庭師のおじさんたちにも体重だけなら負けない自信があるよ。そんな体型で紛れるって、無理なものは無理。
だが、ここは乗りかかった船だ。同じ体と記憶を共有している同志である豚公爵の助けにわたしがならなくてどうするというのだ。
「もちろん、お代は払います。こちらの日雇い家賃とお礼、それに道具をお借りするお金もきちんと払います」
たぶん、親方であろう一番偉そうな庭師に、ずずっと近づく。
「このとおりです」
庭師の手を握るとそこに宝石のついたピンを握らせる。外套を止めていたピンだったがまぁいい。
豚が近寄ると、周りの人垣がずいとひいた。なんだ、とても怖がられているのか?
「あ、旦那、いや、旦那様。そのようなことをおっしゃっても、俺ら、私どもはただの庭師でございまして」
「もちろん庭師さんですよね。わかっております。実はここに入らなければならない切実な用がありまして、でも王室の許可がないとここには入れないのです。もし、かわっていただけるのでしたらお礼はいくらでもいたします。お願いです。今日一日庭師として働かせてください」
周りの視線が痛い。私に手を取られた庭師の男は目を白黒させている。
「しかし、旦那様、その服では・・・」
そうか、服か。たしかに豪華な服を着ている。汚すともったいないかな。私の貧乏根性がめざめる。もうこうなったら破れかぶれだ。
わたしは自分で服を脱ぎ始めた。ここ最近自分で服を着たり脱いだりしていなかったが、いざとなればできるんだぞ、こんちくしょう。
「ちょいと待ってください」
私が何をしようとしているのかに気が付いた親方が青くなって私をとめる。
「このことは、上のものと話し合わないと、俺らでは決められません」
必死の目で訴えている。周りの屈強な体格の男たちも無言だ。腰が完全に引けている。
「上のものというのはどなたですか?」
「俺らの取りまとめ役、口入屋の主人にきいてみないと、なぁ」
周りの男たちががくがくと首を縦に振った。
さすがにこれはやりすぎたか。そこにいるもの全員私のことを気が違ったとおもっているようだ。
「そうですか、それではお返事はいつ頃?」
わたしは食い下がる。
「あ。二日もすれば、わかると思う」
「わかりました」
わたしがそういうと、男たちもわたしの中のウィリアムもほっとした気配を漂わせた。
「それでは、二日後にまたうかがいます。どちらに行けばいいでしょうね。その、口入屋とかいう人のところへは」
「あんたが行くのかい」素っ頓狂な声があがる。
当たり前だ。わたしは本気なんだ。こうなったら何が何でも学園に潜入してやる。そのためならなんだってやる。小さい貴族のプライドなんかくそくらえ。わたしはぐずぐずいう豚の意見を踏み倒した。
庭師たちは気違いには逆らわないことにしたらしい。賢明な判断だ。その口入屋とやらの場所をさらりと教えてくれた。
「俺が案内しますので、声をかけてくだせぇ」
すっかり物分かりがよくなった庭師たちの邪魔をしては悪い。
わたしは馬車で立ち去ることにした。御者と家令はわたしの様子に恐れを抱いているようだ。
「さぁ、戻ろうか」
穏やかな笑顔を見せたつもりだったが、二人は後ろに下がった。
館に戻るまで誰も口を開かなかった。