俺は本当に『華の学園』が大好きだった。
どうしてこのゲームに惹かれたのか、自分でもよくわからない。
それでも製品版は発売日に手に入れたし、数量限定のR18版も初日から攻略を始めた。
周りの人たちはこのゲームをくそゲー呼ばわりしたけれど、俺にとっては神ゲーだった。
本当にこの世界が好きだったんだ。
ある日突然モブAとして目覚めるまでは。
しばらくは有頂天になっていたよ。流行の異世界転生…現実の進んだ社会の知識や技術をつかって無双し放題。かわいい女の子に囲まれて、ハーレムをつくって。
でも、すぐにわかった。
ここはくそゲーの世界だ。
チートもない、知識も役に立たない。ゆがんだ世界に閉じ込められてしまったって・・・
モブAことダークは庶民中の庶民だった。
ゲームの中でもあちこちに都合よく使われる一般庶民Aだ。
あるときは馬車に轢かれ、あるときは魔王軍に追いかけられ、あるときはただただ祭りで酒を飲んでいる。そんなどこにでもいる庶民A、使い回しのモブだ。町を荒らす悪の一味の手下から、裁判で豚公爵を弾劾する正義の民衆まで、おまえの立ち位置はどこやねん、といいたいくらい使い回されていた。
ここでの身分は学園の調理見習いだ。庶民としてはまずまずの出世頭かもしれない。
怖い嫁とうるさい子供が三人、彼らを養うために朝早くから学園の調理場で働いている。
偉そうな調理長ににらまれて、出世しか考えていない同僚に足を引っ張られて、それでもなんとかこの職場にしがみついている調理師見習い。それが俺の身分だった。
現代の知識は役に立つどころか足かせになった。
レンジや冷蔵庫のことを知っていてなんになる? 自作するだけの知識も力もない。そういう物があったと知っているだけの存在だ。3分でできるごちそうや、いつもよく冷えたビール。野菜はいつも新鮮で、肉はきれいにラップされて食中毒の心配はない。そんなものがあると話そうものなら気が狂ったと思われるような職場だ。
不衛生な調理場、煮えたぎるかまど…へたしたら命に関わるような危険な場所で黙々と野菜を刻んで、スープをかき混ぜて…皿洗いよりはましだと自分を慰め、いつかは調理長として働いてやると野心をかき立て。
なまじ豊かな生活を知っているだけに今の状態は苦痛だった。
気がつくと俺はダークという元の人格に周りの対応を任せていた。
俺、大学生の片桐良一は意識の影に隠れ、傍観者として生活していた。
そんなときだ。学園に通っている攻略キャラたちを見かけたのは。
ゲームの中そのままにきらびやかな攻略キャラたち。
同じ世界の住人とはとうてい思えない、雲の上の存在だ。
彼らが現れたとき周りの料理人の態度がはっきりと変わった。あこがれと尊敬、機会があれば声でもかけられて株を上げてみたい。特別扱いされるのが当たり前のそんな学生達だ。
それでもわかってしまった。彼らも俺と同じく向こうの知識を持った異質なものだということを。
学園に中等部から通っていたらしい彼らは、こちら(ダーク)には分からないと思って、平気でゲーム用語を使っていた。
レベル、攻略、フラグ、戦闘…。
ここで生まれたものが知っているわけがない単語なんだよ、それは。
彼らはもちろんこちら(ダーク)の存在に気が付きもせず、優雅に、俺たちが苦労して作った食事をお召し上がりになった。
その感想がこうだよ。
うん、庶民の味も悪くないな。
庶民の味だって? 自分たちは選任料理人の作る豪華な食事を食べているからわからないのだろうが、この食事だって本当の庶民の食事よりはよほど豪華だ。彼らの食べている悪くない食事やお茶菓子など目にしたことも口にしたこともない人間のほうが多い。
ダークの意識だけならその言葉は心を傷つけなかっただろう。彼の認識では貴族とはそういうものだからだ。だが、桂木良一の意識が深いところで燃える怒りを呼び覚ます。
「人は人の上に人を作らず」、そう教えられてきた。「自由、平等、博愛」、素晴らしい物だと教わってきた。それを聞いたときは右から左に流して聞いていたつもりだったけれど、俺の心の片隅に染みついていたようだ。
向こうでの中途半端な良識がここでの当たり前を当たり前にさせてくれなかった。
俺はたまらずその場をあとにした。あんな連中にこびを売る調理師仲間や、平民の生徒の姿を見るのがたまらなくいやだった。
仕事半ばで飛び出したのはあの時が初めてだった。
悔しかった。
ただモブという役が割り振られただけで、こんなに差が付くなんて。
片や王子様やお貴族様、俺はその日の食事も困ることがある庶民だよ。理不尽だろ。
そこでトールと出会った。
彼もまたもうすぐ始まるであろうゲームに備えて、この学園を探りに来ていたんだ。
お互いに一目で転生者とわかった。
トールはほかの転生者も探し出していた。残念ながら、彼が見つけることができたのはみんなモブや悪役ばかりだったけれど、同じ境遇の人たちと話せるというだけでうれしかった。
そうこうしているうちに豚公爵まで仲間になってしまったよ。
自分が不幸な星回りだと思っていたけれど、もっと不幸な人もいるんだな。
よりによってエロ抜きの豚なんて、だれがやりたいものか。
話を聞いてみると豚は思っているよりもずっとひどい境遇だった。トールこと一郎君も眉を顰めるようなそんな状態だ。
「豚公爵、ハンディありすぎだろ。原作よりも立場悪いじゃないか」
トールは物思いにふけりすぎて、自分の指をがりがりと噛んでいたよ。
「普通に悪役のほうがまだましだよね。豚本人が白痴だなんて」
「ああ、豚公爵につながりが付けば、ひき逃げイベントは回避できるかと思っていたんだが、豚があの状態じゃぁな。豚公爵はそんなイベントは阻止するとはいっていたけれど。打つ手ないよ、すまないな」
結局俺が周りを警戒して歩く以外にないという結論になってしまった。
本当なら引きこもり生活がしたかった。外を出歩かなければ、馬車に轢かれることはないからな。だけど、これでも嫁と子供を養う身分だ。働かないと食べていけないんだよ。
その日は下町で小さな祭りが開かれていた。
俺はできるだけ不要な外出は避けて、なるべく大通りを歩かないようにしていたんだよ。
でも、子供が泣いたんだ。道向こうにある店で売っている飴が食べたいって。
せっかくのお祭りの屋台、お菓子の一つくらい食べてみたいって。
仕方なく、俺は道の端に並んでいる出店で子供に飴を買ったんだ。
「おとうさん、みてよ」
俺に似てどこまでもモブ顔の息子は嬉しそうに飴をかざした。
「これが僕の分、そして、こっちが妹のだよ」
そういって、息子は飴を道向こうにいる妻と妹にみせたんだ。
「みて、お母さん、あんな、飴を買ってもらったよ」
みんな嬉しそうで、楽しそうで。
家族のいる生活はいいなって一瞬幸せな気分になったんだよ。
飴につられた子供がこちらに走ってくるのを見るまでは…
妻が止める間もなかった。
飴につられた娘は極上の笑顔を浮かべて、こちらに走ってくる。
そこにやってくる馬車を見て、俺は血の気が引いたよ。
何も考えていなかった。ただただ、子供を助けたかった。
俺は大通りに飛び出し、そして・・・
*
その日、わたしは学園の草刈りに行っていた。
トールから話を聞いている庭師達は、渋々わたしを受け入れてくれたよ。
うれしいことにこのところ何とか形だけ仕事ができるようになっていた。
体重もたぶん少しは減っている。体型も以前に比べるとだいぶ細くなった。
細くなったかなと、クラリスにきくと満面の笑みで肯定してくれる。
クラリスが言うのだから、たぶん間違いないよね。
トールに何か言われたらしい庭師たちは、わたしが休憩しながら仕事をしているふりをしているのを黙認していた。
いつも休んでいる、なんて言わないでほしい。この体では後ろをついて歩くのがやっとなのだ。これでも倒れて荷押し車で運び出されなくなっただけましなんだ。
学園に忍び込むことには成功したけれども、一度も娘の姿を見ることはなかった。娘と一緒にいるはずの攻略対象者たちもだ。
トールは攻略対象者の中にも“転生者”はいると断言していた。ただ、どうしても彼らと連絡を取ることができないらしい。
なんなんだろうね。ゲームの強制力とかいう奴だろうか。
彼らと協力できないと、わたしたちの死亡フラグをおるのは難しいのではないかな。
ダークも一度彼らを見かけたことがあるだけだといっていた。
華の学園のゲームの中ではたびたび食堂でのイベントがおこされていたから、ダークが接触できるのではないかと期待していたのだけどね。ダークこと桂木君がいうには、貴族用の食堂と一般庶民用の食堂は別れているのだそうだ。攻略対象者達は貴族用の食堂で食事をしているらしい。
とても残念だ。
主人公は一応庶民という設定になっていたはずだが、そこのところどうなのだろう。
平民も平等に教育するというのは所詮ゲームの中の建前なのだろうか。
とにかくわたしはくたびれきって、クラリスの待っている馬車に乗り込んだ。
「なんとか今日一日外で過ごすことができたよ」
「素晴らしい進歩ですわ。ウィリアム様」
クラリスはわたしを褒めてくれた。
ありがとう、そうやって答えてくれるのは君だけだよ。
相変わらずわたしの住む本宅には人は寄りつかず、住み込みで働いているのはクラリスと昔からいる料理人くらいのものだった。時々様子を見に来ていた家令も、ここ数日ご無沙汰だ。
わたしのわがままにつきあっている御者がなんと家令に報告しているのかは知らないが、ろくな話を伝えていないに違いない。豚はついに発狂しました、手に負えませんとでも行っているのだろうか。
馬車の中で眠りかけていたわたしを起こしたのは馬車の止まる衝撃だった。
「どうしたの?」
クラリスが身を乗り出して何が起こったのか御者に尋ねる。
「どうも、祭りの最中に何かがおこったみたいですね。誰かが前を行く馬車にはねられたようです」
「そうか」
馬車…馬車に轢かれる…
そうか、じゃないだろう。
わたしはダークのイベントを思い出す。再び眠ろうとするウィリアムの意識をたたき起こし、クラリスに誰が轢かれたかを確認してもらう。
「た、大変です。轢かれたのはあのダークとかいう人でした」
いったん馬車を降りたクラリスが慌てて戻ってきた。
誰かの馬車にひき逃げされたダークは道の側に血を流して倒れていた。その側に細君らしき女性と小さな子供が二人、皆声を上げて泣いている。
「ダーク」おもわずわたしは馬車から外に飛び出そうとして…扉にはさまった。
豚は豚だった。やせたと思ったのは幻想だった。
倒れているダークの側にシャークがいた。トールがみはらせておいたのだろう。できる男だ。
「ぶ、豚さん、どうしましょう」
シャーク、口調がエリさんになってるよ。しなを作って泣きべそをかくのはやめて。
「エリさ…シャーク、トールに連絡して。薬師か医者を豚邸へ。それから、クラリスとそこの御者、この人を馬車に乗せて。その前にわたしを馬車に押し込んでくれ」
わたしもついついウィリアムを差し置いて指示を出してしまった。泣き叫ぶ妻子に声をかけてなだめる。
「ここにいては危ない。旦那さんを安全なところに運びましょう。あなたたちもこの馬車に乗ってください」
本当は動かすのは危険なのだが、救急車などない。ここにいても死ぬのを待つだけだ。
どこか安全なところと思ったときに、考えつく場所はただ一つ。豚屋敷だった。
運び込まれたダークは虫の息だった。わたしができるだけ小さく身を縮めても、馬車の中は細君と子供たちでいっぱいだった。
仕方なくクラリスは御者台へ、子供たちはわたしの膝の上にのる。
「おかあさーん、すわりにくいよー」子供の一人が泣きながら私の腹の上で跳ねる。
もう一人のチビは何かわめきながらわたしの服で鼻を拭いた。
「おま、お貴族様になんてことを…」
不敬なことをしたかと青くなるダークの妻にわたしは笑ってあげた。
「いいんですよ、奥様、気にしないでください」
ひーっと細君はあり得ないものをみたというように小さく固まってしまう。
わたしの対応が何か間違っていたのだろうか。
あたりまえだ。なぜわたしがこんな下々の者を馬車に乗せないといけないのだ。
馬車が汚れるとウィリアムはいやがっていた。
うん、ごめん、ウィリアム。また気が触れたような行動をとってしまった。貴族と平民が一緒の馬車に乗り合わせるなんて、ここの世界ではおかしいことなんだね。でもこうしないとダークが死んでしまう。
これがいべんとなんだな。ウィリアムがわたしの右往左往する様を見てつぶやく。
これが、いべんと、なのか?
そう、これが最初のイベントだった。