豚の矜持8 薬

あの後わたしは這うようにして自室に戻り、倒れ伏してしまった。

 あとの始末は全部人任せにしてしまったよ。

 豚、使えない奴・・・とか思われてるんだろうな。ごめんね、みんな。本当にすまない。

 目が覚めたとき、いつものようにクラリスが側に控えていた。

「おはようございます。ウィリアム様、今日はお風呂になさいますか?それとも、ご飯を食べられますか?」

 それとも、わたし…と、べたな台詞を頭の中で付け加えてしまう。いかん、思考がエロゲーモードにはいっている。

 それというものの、昨日はエロゲー版のイベントがあったからだということにしておこう。今の豚はとてもではないがエロモードに突入できる体調や心境ではない。

 エロゲーの悪役を張っているくらいだから、四六時中発情しているものだと思っていたが、豚公爵はいつも仏様のように悟っておられる。

 むしろ憑いているわたしの妄想がエロいくらいだ。

 エロがない豚は豚じゃないとはよくいったものだ。エロ要素がないと豚は出番のないだだの黒幕なんだよね。さんざん人からひどい奴ですと噂されているけど、実際に犯罪現場に行ったこともなければ、荒事をしたわけでもない。

 少しくらい美人を見て反応したりしないのかな。

 うん、できないんだね。ごめんね。傷をえぐるような真似をして。

 本人はなんらかの心的外傷後ストレス障害だと思いたがっているが、わたしは単に太りすぎて糖尿病が悪化しているせいだと思っている。糖尿病が悪化するとそっち方面に気がいかなくなるらしいからね。

 今日の豚は風呂に入って朝食をとるという日課を選んだ。

 その間にクラリスがかいつまんで昨日のその後を話してくれた。

 ダークはゴールドバーグ本邸の開いた部屋に運び込まれた。空き部屋だけはたくさんあるからな。寝台もどこからか引っ張ってきたらしい。そして、トールをはじめとする関係者が呼ばれて、薬師や治療師が苦心してなんとか命だけは取り留めたらしい。

 ダークの妻や子供たちもここにとどまっているようだ。

 こんなにばたばたしていたのに、家令は姿を現さなかった。どうも、向こうでも何かイベントが進行していたらしいのだ。エリザベータ関係のお茶会イベントでもめていたのだろうか?

「ウィリアム様、トール様が昨日のことでお話があるとのことです」

 食事をして一息をつく豚公爵のもとにトールがやってきた。

「よう、ウィリアム。昨日はありがとうな。ダークを助けてくれて、助かった。俺たちだけだと命を落としていたかもしれない。へぇ、これが豚の部屋かぁ。実物は初めて見るなぁ」

 トールはまるで友達のように片手をあげて部屋に入ってきた。自分のテリトリーに平民が土足で踏み込んできたとウィリアムはひどく不快に思っている。

 その表情に気がついたのか、他に何かあるのかトールは眉根を寄せてこちらの顔色をうかがう。

「なぁ、おまえ、この部屋は」

 いきなりトールは窓際に行き厚いカーテンを引いて窓を開けようとした。

 薄暗い部屋の中に外の明るい光が差し込む。

「何をする」

 いきなり部屋の環境を変えられてウィリアムは驚いた。薄暗い部屋になれていた目に外の光はまぶしい。

「開かないな」

 トールは次々にカーテンを引いて窓を点検する。がたがたと窓枠を揺らして大きな観音開きの窓を開けようとしているみたいだ。

「おい、おまえ、いつもこの部屋で過ごしていたのか?」

 振り返ったトールの表情は鬼のようだった。無遠慮な行動に腹を立てかけていたウィリアムも威圧されて、気弱にうなずいた。

「窓を開けたことは?外の空気を入れ換えたことはないのか?」そういってトールは無理矢理窓の鍵をこじ開けて窓を開け放つ。

 涼しい外気が外から吹き込んできた。

 次々と窓を開けていくトールをクラリスとわたしはあっけにとられて眺めていた。

「な、なんなんだ?」わたしはどもりながら尋ねる。

「この部屋で、夜来無花をたいたな」

「やらむか? やらない、か?」

「じゃねぇ、夜来無花だよ、しらねえのかよ」

 あっと、クラリスが口を押さえた。豚の鈍い記憶の中でようやくそのものが浮かび上がる。

「どのくらいの期間、つかっていた?公爵様」トールがウィリアムの小さな目をのぞき込む。「どのくらい香をたいていた?」

 ウィリアムは答えられない。かすかに記憶の中からよみがえってきた名前。

 ・・・これを閨でたくとすべてがうまくいく香です・・・

 確か、そういって勧められたのだった。子作りに役立つといって。

 彼は自分の子供はエリザベータだけでよいと思っていた。美しい娘、賢い娘・・宝石のようなわたしの宝物。

 わたしにない美点を備えたわたしの誇り。

 しかし、周りはそれを許さなかったのだ。

 女ではいけません。男の子でなければ。ゴールドバーグの血を引く男の子が必要なんです。

 頑張った。やる気もないのに、頑張った。

 薬も使った。女にも自分にも。

 その気にさせる香もたいてみた。夜来無花はそのとき使った香の一つだった。

 多くの女性が連れてこられたが、誰一人身ごもることはなかった。彼の子供はエリザベータだけだった。

 豚の淡々とした回想をのぞき見てわたしは吐き気がしてきた。

 跡継ぎがほしい気持ちはわかる。

 だからといって体と精神を損なうほどの媚薬を使うという手段に出るとはどうかしている。

 もっと食生活を考えるとか、運動させるとか、何か別の手段があったのではないかとわたしは思う。

 そんな危ないものだったなんて。わたしの向こうでの薬に対する認識を知って豚はショックを受けている。私はそんなことは知らなかった。豚が小さな声で主張する。私はこの香を治療のためだと思ってつかっていたんだ。

 この香が出てくる最初の記憶はもう十年以上前のことだった。エリザベータがまだ幼い時期、ウィリアムの記憶にあるかわいいエリザベータと一致する。

 豚の記憶が曖昧な理由や馬鹿に見える理由がやっとわかった。

 薬を使っていたからなんだね。それも、副作用が強烈な奴を。

 奇妙に納得したわたしをトールは別の部屋に連れ出した。

「二度とあの部屋に入るなよ。部屋の隅々まであの香の香りが染みついてやがる」

 新しい豚の寝室はちょっとほこりっぽいにおいがしたが、明るいとてもシンプルな部屋だった。

 ごてごてした豚寝室よ、さらば。

 そこからは豚がリハビリ代わりに通っている畑がよく見える。

 そこで今日も黙々と庭番が畑を耕していた。

「ダークの様子はどうなんだ?」

「ああ、彼なら落ち着いているわよ。よかったわね。かれは生存ルートのほうにはいったみたいね」

初めて聞くハスキーな声だった。

 杳然とほほえむ大人の魅力がたっぷりの女性が部屋に入ってきた。

 この人にもとても既視感がある。

 売春宿の経営者おかみ、マーガレット・デュロイ、華学の中で悪役として成敗されるキャラである。

「はじめまして、ゴールドバーグ公爵。わたしは宿屋経営者おかみのマーガレットよ。本名は橘敬士です。トールからいろいろ話は聞いているわ」

「彼女も仲間の転生者だよ。職業柄いろいろ情報を集めてもらっている」

「たちばなさん? ケイシということは、元は男の方ですか?」

 妖艶なFカップ熟女を前にこんなことを聞くのは失礼だとは思うのだけど。

「そうよ、わたしは元々男よ。ちなみに職業は警察官だったの」マーガレットは深くなまめかしいため息をついた。「何でかしらね。本来のわたしが取り締まるべき仕事の人間に転生するなんて」

 あ、そうですか。ご苦労様です。

「彼女は、俺と同じくらい長いここでの記憶を持っている。知っているとは思うけど、その道のプロだ」

 その道のプロですか…プロが裏方に回って売春宿の経営というわけだ。

「失礼ね、トール」女はすねて見せた。「わたしはかわいそうなダークの治療に来ただけよ。今回彼が死ななくてよかったわ。本当に一歩間違えば死ぬほどの傷だったのよ」

 そういってからマーガレットこと橘さんは表情を和らげる。

「でも、本当によかった。これでわたしたちがフラグを回避できるということが証明できたようなもんでしょ」

「それはどうだか…あのキャラクターは後の他の場面でも使い回しされていたからな」トールは腕を組んで何か考え込む。

「ところで、豚の部屋のことなんだが…」

「ええ、かなり中毒性の強い香が焚かれていたことは間違いないわ。わたしだったら絶対に娘たちには使わせないけれどね。そこまでして子供がほしかったのかしら」

「最初は子づくりのためだったんだろうな。だけど、それだけじゃなさそうだな」

 トールは口をつぐんだ。ゴールドバーグ家の闇は本当に深い。

 わたしは豚の収入源が麻薬だったことを思い出す。

 エリザベータがそれを学園でつかって何人もの犠牲者を出すのだ。

 豚公爵さん、ウィリアムさん、君の家の家業薬屋だったよね? ゲームの中でそんな描写があったような気がするのだ。そんなことも忘れてしまっている?

 確かに私の家は薬草も扱っていた。だが、それはほんの一部であって主な財源は農作物の売買だったはずだ。ウィリアムが思い出す。

 豚の領地は豊かな穀倉地帯でそこからの収入で暮らしていたらしい。

 豚公爵が麻薬のことを知らなかったことをトールやマーガレットに伝えると二人は顔を見合わせた。

「おかしいわね。ゴールドバーグ家からの薬は確かに流れてきているのよね」

「だな、てっきり黒幕は豚公爵だと思っていたんだが。あ、おまえに会う前までな。今はおまえの嫁があやしいと思っていたんだ」

「いろいろと薬の研究はしていたんだよ。新しい、よりよい薬を作るために、その方が収入が増えるって、えっと」

 かすかな記憶の向こうに眠っていた書類仕事をしていたウィリアムの姿。慣れない作業でほとんど家令達に任せきりだった。

 そこからさきウィリアムは自分の考えに没頭してしまう。

 こんな風に自分の思考に浸っているときはわたしには豚の考えが読めない。トールのいうようにいずれこの境界も消えてしまうのだろうか。わたしとウィリアムの間にはまだかなりの溝がある。

 ダークの傷の具合はかなり悪いものだった。魔法という便利なものがある世界とはいえ、彼の怪我は完全には治らないということだった。学園の調理師見習いとして働くことも絶望的だと言われた。

「あんなせわしいところで働くのは無理だよ」リハビリをしたら治ると慰める私たちにダークは頭を抱えて嘆く。「ただでさえ大変な職場なのに」

 彼には細君と幼い子供がいる。ダークが働けなくなるということは一家が干上がるということを意味する。

「ダーク、それならここで働くというのはどうかな?」わたしが提案してみる。「ここなら、私やクラリスの食事を作るだけですむからそんなに忙しくないと思う」

「豚公爵のところでか?」ダークはいやな顔をした。「まさか解体作業とかさせるつもりじゃぁないだろうな」

「それは大丈夫だと思う。鳥くらいは解体すると思うけれど、それ以上大きい生き物は肉を買ってきているようだから」

「・・・・・・」

 ダークのなんともいえない表情を見てわたしは思い出した。

 そういえばゲームの中で、解体を頼む、と料理人に命じる会話があったような気がする。死体を隠す目的で、なんだけどね。

 とっさにそんな台詞を思い出すとか、いったいどれだけゲームをやったんだよ。ダークさん。

 わたしは慌てて話題を変えた。

「君の奥さんと子供たちも住み込むといいよ。部屋はたくさん空いているからね。暇なときに屋敷の掃除を手伝ってくれるとうれしいな。それにそうだな。シャークとカークも呼んだらどうだろう。これから彼らのイベントが始まる予定だよね」

 ウィリアムが目をむいて反対したがこれも踏みつぶした。

 シャークとカークは喜んだ。彼らの中身は汚い下町の生活にまだ慣れていなかったのだ。豚邸には風呂もあるし、ちゃんとした排泄物を処理する施設もある。町よりもよほど清潔な暮らしがおくれるのは明らかだった。

 半ば無理矢理ここに連れてきたダークの妻子も不承不承ながら受け入れた。というよりも、大黒柱ダークがこんな状態で豚公爵の常識外れな提案を聞き入れざるを得なかったというところか。

 こうして豚邸は少し賑やかになった。ウィリアムは下民共が増えて、面白くなかったようだが、黙っていた。

 何日もたって家令が久しぶりに豚のもとを訪れた時には、ダークの妻子は何十年も前から住み込んでいたような顔をして家に居座っていた。

 家令は新しく雇い入れられた平凡な顔をした、平凡な家族に一瞬驚いたようだった。それはそうだろう。少し目を離しているすきに怪しげな風体の人間が入り込んでいたのだから。

「私が許可したのだ」豚ウィリアムは小さな声で家令につげた。「部屋を掃除する人間がほしくてね」

「主様がお迎えになったのなら、仕方がないですが…」

 家令はこんな女のどこがいいのかといった様子で新しい召使をじろじろと見る。

 家令、おまえ、何か違うことを考えているだろう。人の女房にぶしつけな視線を送るのはやめてほしい。

「私がよいといった」豚はもごもごと繰り返した。

 いつもと変わらない豚の受け答えだったが、内心ウィリアムは怒っていた。

 なにしろ、ずっと長い間信頼してきた召使たちに毒を飲まされてきたのだ。

 目の前にいる家令を含め家臣達の多くは父の時代からゴールドバーグ家に使えてきた。ウィリアムは彼らを信頼して任せてきたのだ。彼らはその信頼を裏切ってきた。

 今もしれっとした顔をして目の前に立っているこの男、何を考えているのか。

 危険な薬を渡されていた件、門外不出のはずの薬が市政に出回っていた件。いろいろとこの家令に問いただしたいことがある。

 そんな憤りともどかしさを感じているウィリアムを抑えることは大変だ。証拠を押さえるまで待てとトールにいわれてるだろ。それに今それを指摘してももう遅い。主を薬漬けにすることに苦悩していたのなら、それは最初のころだけだ。今はもうその状態になれきって良心などとっくに死んでいるはずだ。

 そもそも最初からわたしはおかしいと指摘してたでしょ。どうして人の話を聞かないかなぁ。ウィリアム君。

 うわぁ、突然切れて家令にものを投げるのはやめて。

 ただでさえ、頭のおかしい豚認定されているのだ。ますますおかしいと思われてしまう。

 豚の寝室を新しくしてから、豚の体調は加速度的によくなっている。

 変な食欲もなくなったし、午前中の時間は作業が続けられるようになってきた。

 学園に顔を出してもお荷物になることも減ってきた。

 それと引き換えに豚から感じられなかった感情の起伏が徐々に表れてきた。笑ったり、起こったり、悩んだり。

 それは一面素晴らしいことだったが、時々むつかしいことになる。

 今回のように怒りを止められなくなることがしばしばおこるのだ。。

 ウィリアムをわたしが必死で押しとどめている間に家令は別邸のほうに戻っていった。

 やれやれだ。

 まだ頭を沸かしている豚公爵を何とか促して、裏庭の作業に行かせる。

 今日は裏庭で作付けをすると庭番が言っていた。

 この庭番はとても不思議な男だった。

 出自のわからない謎の人物で今に至るまで豚公爵に対する態度を変えていない唯一の人だった。古くからいる料理人も彼にはうやうやしく接している。

 たぶん豚公爵が一応当主であることも、気がくるっていることもよくしっているのだろう。なのになぜ?

「おまえ、気を散らすな」庭番は不機嫌そうに豚を叱る。

「気を散らすな、といわれても…」

 ウィリアムは小さな声で抗議をした。

 後ろから腐った野菜を投げつけられたのだ。気を散らすな、といわれても見てしまう。

 くすくすという笑い声と小さな足音。庭番がそちらをにらむと生垣ががさがさと揺れて、小さな人影が逃げていった。

 ダークの子供たちはすっかりここになじんでいた。なじみ過ぎて、ウィリアムを軽んじることまで身に着けてしまった。

 馬車の中で恐ろしさのあまり泣き叫んでいたくせに…

 お貴族様も一皮むけばただの豚だと知って以来、よくこうしていたずらを仕掛けてくる。

「おまえ、明日学園の刈込に行くのだろう?」

「どうして、それを…」

「ここにいるものはそのくらいのことはわかっている」庭番はむっつりと口を結んだ。「明日役に立つ刈込の技術を教えてやる。だから、よく見ておけ」

 わたしもウィリアムも驚いた。彼が豚に協力してくれることなどありえないとどこかで思っていたからだ。そのくらいいつもぶっきらぼうなのだ。

「あ、ありがとう」とても小さな声で豚は礼を言った。

 ウィリアムがこんなに素直に人にありがとうというだなんて。なにしろ、ゲームの中の豚は傲慢で人を見下していて、感謝の気持ちをつたえるところなど想像もできないようなキャラなのだ。

 無気力でない豚は意外といい奴なのかもしれない。そのときわたしは豚公爵を少しだけ見直した。

 次の日の豚公爵は絶好調だった。

 庭番の教え方がよかったのか、いつもは遠目でみている学園の庭師たちも褒めるほどの刈り込みの技だ。わたしが植物の種まきを一から教えていた頃とは別人のようだ。

 薬がだいぶ抜けてきたのか、気力、体力ともに格段に上がっている。

 あ、体格だけは豚のままだけど。

 ひょっとすると、ウィリアムは公爵をやっているよりも庭師をしている方が向いているのかもしれない。

 作業は鼻歌交じりですすんだ。

 豚公爵がご機嫌だとわたしも楽しくなる。

 刈り込みをした枝から香る木の香り、リズミカルな鋏の音・・・周りの木が力を私たちに注ぎ込んでくれている、そんな妄想までしてしまった。

 だから、気がつかなかった。そこに彼女がいることを。

 彼女はいつもの彼女とは違って見えた。

 いつも発している人を圧倒する気配はなかった。ただの少女として庭に溶け込んでいた。

 だから、ただ一人の庭に迷い込んだ生徒のように見えたのだ。

「あ」

 でも、豚公爵ウィリアムには一目でわかったらしい。

 銀色の流れるような髪、華奢な体型…彼の娘エリザベータがぼんやりと庭を散策していた。物思いにふける彼女はどこか弱々しく、あやうくみえる。

 あやしい庭番が自分のことを見つめていることに気がついたエリザベータはすぐにいつも凍るような気配を取り戻した。

「そこのもの、何を見ているのです、失礼でしょう」

 すんだ鈴のような声が冷たく響く。

「おまえのような下民は生徒の前に出てはならないことになっていることを知らないのですか。その醜い豚のような・・・」

 そこまでいってからエリザベータは目を瞠って、豚公爵をしげしげと見た。

「…お父様?」

 豚は喜んだ。愛しい娘の顔を見ることができて、名前を呼ばれて、舞い上がった。

 醜い豚といわれたことなどスルーしてしまったよ。

 かわいらしい、わたしの娘・・・ウィリアムの思い出がちらりとかすめる。

 小さな手をいっぱいに伸ばしてわたしのところに駆け寄る、小さなエリザベータ・・・

 ・・・お父様!

 銀色の髪をなびかせて小さな娘がこちらに満面の笑みを浮かべて。

 私は彼女を抱き上げる。

 一瞬豚公爵の記憶だとは思えなかったよ。

 それほど自然な親子の記憶だった。

 本当にこれは豚公爵の記憶なのだろうか。それとも、妄想?

「お父様?なぜここに・・・もの狂いの病で家からでられないとアダムズが言っていた。違う、お父様がここに来られるわけがない。おまえは何者?」

 エリザベータは本当に当惑して、その様子は年相応の少女のようだった。

「エリザベータ」ウィリアムは少女に手を伸ばす。「私はおまえに会いたくて…」

「申し訳ありません」突然誰かが豚を後ろから突き飛ばした。

 豚はつんのめって頭から植え込みに突っ込む。

「申し訳ありません、お嬢様」

 日雇い庭師の親方の声だった。

「コイツは、新人で、頭が弱いのです。よくよく言って聞かせますので、お許しください」

 豚公爵は抗議してもがいたが、親方は豚をがっちりと押さえて放さなかった。

「何事ですか」別の声が聞こえる。「エリザベータ様?」少し間をおいて、ひやりとするほど高圧的な言葉が突き刺さる。

「おまえたち、ここで何をしている。エリザベータ様の御前にその醜い面をさらすとは」

 こちらに近づいてくる足音。親方の手がぱっと離れた。

 豚はこれ幸いと頭を抜こうとした。だが、うまく体とのバランスがとれずにもがくばかりだ。

「い、いいのよ、イワン」

 エリザベータの少し慌てた声が割り込む。

「そのものたちを驚かせたのはわたしです。突然のことだったので慌てたようなの。そんなものたちのことはどうでもいいわ。わたしをここから連れ出してください」

 最後のほうは冷静な氷の姫そのものだった。

  変な男に、私の、エリザベータが・・・ウィリアムはわたしの思わず発してしまった思考を読んで、憤然と頭を生け垣から抜こうとしたが、うまくいかない。

「姫様のお望み通りに」

 きざな台詞を吐きながら、男はエリザベータをエスコートしてその場を離れたようだ。

 物音が消えてしばらくしてから、親方が豚を低木の茂みから引き抜いた。

「今度からこんなことはしないでください」親方の顔は真っ青だった。「あなたの本来の身分が何であろうと、ここではただの庭師です。あなたのしたことは手打ちされても仕方がない行為なんですよ」

「わたしは、わたしはただ…」

 親方の震える手と声が、文句を言おうとしたウィリアムの口を封じた。

 豚公爵と親方は黙って逃げるようにその場を立ち去った。

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