「ということで逃げ帰ってきたのか・・・」トールが深いため息をついた。
逃げてきたのではない、戦略的な撤退だ。と主張したいところだけど、そうだよ、そのとおりだよ。逃げ帰りました。
わたしは今回の出来事に深い衝撃を受けていた。
ここってそんなに身分差が激しいところだったの?
ゲームの華学はそのあたりのことがゆるゆるで、主人公は平民だったし、主人公の幼なじみも同じように学園に通っている設定だった。
下民は貴族と顔もあわせたらいけないって、それ、どこの世界の話だよ。
お手討ちってどこの江戸時代?
ねぇ、ねぇ、これが当たり前なの?こんなひどいことがあっていいのとウィリアムに問い詰めたいところだが、ウィリアムは絶賛引きこもり中である。
彼もまた別の意味で衝撃を受けていたのだ。
エリザベータ・・・わたしの娘・・・
娘の冷たい態度に彼はいたく傷ついていた。
昔、豚ウィリアムとエリザベータは親密だったようなのだ。
幼いころのエリザベータと豚公爵が楽しそうに笑い合っている記憶。
豚公爵が一方的にストーカーをしていたわけではなく、ちゃんと心の交流というものが行われていたことがうかがえた。
エリザベータは豚夫妻から虐待を受けて育ってきた、そうわたしは思い込んでいた。だって、18禁のほうでは父と娘の禁断の関係が明らかにされるルートもあったからね。てっきり公爵は実の娘をも毒牙にかける超絶変態だと思っていたのだ。
それが、どうして。
「ふーん、そうか、豚は本気で娘のことを思っていると…」
そのことをトールに相談すると彼は淡々とそのことを受け止めた。
「信じられないだろう、そんなこと」
こちらとの接触を閉ざそうと豚公爵をいいことにわたしは好き勝手なことをいう。
「あり得るね」トールは至って冷静だ。「ここはゲームとは似て非なる世界なんだよ。俺の感覚では違う世界を無理矢理ゲームに当てはめてるって感じだな」
トールはたばこに火をつけて、胸一杯紫煙を吸い込む。
「たとえば、公爵の監禁とか麻薬中毒のことだ。ゲームにはそんな場面は全然なかっただろう。むしろ豚公爵が監禁する側だったよな。そして、この世界でも大貴族の当主をそんな扱いにすることはほとんどない。そんな扱いをするのなら当主になんか据えておかない。殺して別の奴をたてればいいことだろう。おかしいんだよ。そもそも」
いわれればそうだ。薬中毒の豚なんて、存在価値ないよね。どうして私は生かされているのだろう。
トールのいうとおり、違和感のある出来事が多すぎる。最もおかしいのはこうやって取り憑いている“転生者”の存在なんだけどね。
「おまえのことだけじゃないぞ。俺やマーガレットもこうなるまでにこの運命を変えようと努力してきた。肉親の死を防ぎ、こんな家業に就かないようにいろいろと考えてやってきたつもりだ。それが、どうだ。結局、この王都で生活をし、ゲームの中の俺たちと似たような職業に就いている。せいぜい奴隷商が口入屋になったり、下町の娼館が高級娼館にレベルアップしたことくらいかな」
トールは窓の外を見つめている。
「おまえと氷姫の関係もそういう修正がかかっている可能性がある。前に公爵が娘のことになると積極的だといっていたな。公爵の娘への愛情は、娘への執着に形を変え、ただのデブ公爵をゲーム中の変態豚に近づけようとしているのかもしれない。ゲームの強制力ってやつかな?」
「そ、そんな…」
「強制力といえばね、豚公爵」マーガレットさんがためらいがちに切り出した。
「このまえ、ダークの一家をここに連れてきたでしょ。あのことが街の噂になってるの。
ゴールドバーグ豚公爵が平民の一家を誘拐したって…」
わたしは飲んでいた紅茶を吹いた。
「誰がそんなことを…」
「街の人たちがね。噂してるの。細君に横恋慕したあなたがダークを轢いて、一家を誘拐したって。愛人にして館に監禁してるって…子供たちまで連れてきて、その、残虐な方法で痛めつけてるって・・・」
「……」
窓の外をダークの子供たちが芝生を痛めつけながら走り回っているのが見えた。その後ろからすっかり体型が丸くなった細君が、怒鳴りながら追いかけている。
「よかったな。悪役としての一歩が踏み出せたじゃないか」
「よくない。全然よくない。今さらだけど、彼らを元いた場所に戻すってのはどうかな?」
「今のダークの状態からするとそれは無理ね」マーガレットが哀れみのこもった目でわたしを見つめる。「まだまだ歩けるようになるにはリハビリが必要だわ。彼らの住んでいたところを考えると、暮らしていくことは不可能ね。奥さんや子供たちだって同じよ。大黒柱のダークちゃんが働けないのよ。それこそあっという間に、細君はどこかの愛人にされて、子供たちは売り飛ばされちゃうわ」
はっきり言おう。この世界は理不尽だ…
「まぁ、いいさ。ダークの命は助かったんだから」
トールが紅茶の受け皿でたばこの火を消した。クラリスが露骨にいやな顔をした。そういえば彼女はこのお茶のセットが気に入っているといっていた。
「問題は、次の秋遠足ピクニックだ」
秋遠足ピクニック…秋の遠足ピクニックといえばかわいいが、この世界においてはそんなにのんきでかわいらしいイベントではない。むしろ、前半の最大の難関ともいえる出来事だった。
「華の学園」はすてきな男の子たちとの恋愛を楽しむ乙女ゲームの要素のほかに、RPGのような戦闘や戦略もののパートをとりいれている、ごった煮のようなゲームだった。
秋遠足ピクニックはダンジョン攻略というRPG的な要素を取り入れたイベントだ。
しかし、このダンジョンの攻略がくせ者だった。むやみやたらに広いマップと自由度の高いシナリオ…春や夏のうちに先行して武術を鍛えていないとつむ。何人の人がここでゲームを投げ出したか。
さらにこのイベントを難しくしているのは、シャークとカークの関わるバッドエンドだ。
ここまでに攻略者の好感度を一定以上に上げていなければ、主人公ヒロインはシャークとカークに誘拐されて売り飛ばされる。エロゲ版ではむふふなシーン付きだ。
攻略者の好感度が上がっていれば、攻略者助けに来てくれる。そしてその攻略者のルートに入るのだ。
ただこのイベントのいつおこるのか、定かではないのだ。
ダンジョン攻略後半にこのイベントがおきるのならともかく、遠足ピクニックが始まると同時に起こされると最悪だ。
バッドエンドへようこそ。そこでつんでしまう。
「…つまり、俺たちの側からすると、この期間にシャークやカークをイベントに参加させないようにしないといけない。イベントに近寄ろう物なら、巻き込まれる可能性が」
「そんなの簡単じゃないか。二人ともここでしばらく暮らせばいい。ダークみたいにリア充じゃないのだから別にいいだろう? 要はイベントのおこる村に近づけさせなければいいということだろ」
「そんなに簡単にはいかないのよ」マーガレットがためいきをつく。「このイベントが失敗したときに何が起こるか覚えてる?」
「魔神が復活して、暴れて国が滅びるんだったっけ?」
「そう。そうならないためには愛の絆を集めないといけないのよね。それで、その絆のかけらをこの誘拐イベントの時に手に入れるのよ」
そうでした。そうだった。ということは、必ず主人公は誘拐されないといけないということか。
「そして、無事に救出されないといけない」
わたしは必死で考える。
「要するに、主人公が危ない目にあって救出されればいいんだよね。じゃぁ、私たちで先に主人公を誘拐するというのはどうだろう?」
「誘拐したふりをするということか?」
「うん、狂言誘拐して、攻略者たちに助けさせる」
「うまくいくかしら?」
「うまくいかせるしかない」
「ほかの女の子たちは?主人公と一緒にさらわれているモブの女性たちがいただろ?いけにえにするとか何とか言って邪教集団が集めていた、という設定だったよね」
「他の子も一緒にさらってしまえばいい」
そういうと二人がものすごい目でこちらを見た。
「あのな、ウィリアム。ここの俺は奴隷商人じゃあないんだけど。ただの口入れやなんだ。誘拐ビジネスはやってない」
「だからこれこそトールの仕事だろ。それこそ、口入屋で女性を雇えばいい。雇った女性たちにしばらく被害者役を演じさせておいて、仕事が終われば家に帰してやればいいだろ」
「それはいい考えなんだけどなぁ」
俺も考えてたよ、とそこまでは賛成してくれた。
「人手が足りないんだよ。イベントを知ってるシャークとカークの手を借りられないとなると現地の知り合いを頼らないといけないんだけどな。あまり信頼できない。本当に誘拐騒ぎを起こしかねない奴らなんだよな。行くとすれば俺か、マーガレットか…」
「わたしは?」思わず尋ねてしまう。
「お前は、なぁ。その体型じゃぁなぁ。目立ってしょうがない。それに、動けるのか?お前はここでカークやシャークと一緒に運動でもしていろよ」
失礼な。そりゃぁ今でもぶくぶくしていますよ。でも春先からのダイエットのおかげかだいぶん体重が落ちてるんだよ。
「トール、だけど、豚さんの力は必要よ。ゴールドバーグ公爵家の許可がないとあの辺りは自由に出入りできないはずなの」マーガレットが穏やかに指摘した。「あの遠足ピクニックのある辺りはゴールドバーグ家と王家の土地が入り混じっているところなの。たしか、舞台になる村自体はゴールドバーグの土地のはずよ。ダンジョンは王家の管轄だけどね」
「よく知ってるなぁ。そんなこと設定集に書いてあったか?」
トールが驚いたようにマーガレットを見た。
「いいえ、これは、こちらの世界で得た知識。うちにあの辺り出身の娘がいるのよ」
というわけで、わたしとトール、マーガレットがイベントの起きる舞台に向かうことになった。
シャークとカークは王都で留守番だ。
「いってらっしゃい」姐さんとアリサちゃんは玄関で見送ってくれた。
「二人とも仲良くね。シャークとカークは羽目を外しては駄目よ」
マーガレットが注意する。
「変な女に引っかかったりしたら駄目よ。あなたたちは本当に節操がないんだから。注意一秒、事故一瞬なんだからね」
「ここの屋敷の中では私たちが主になれるから、大丈夫よ」マッチョなえりさんがおっとりと笑った。「ちゃんと他の子たちの面倒もみておくわ」
「豚さん、野菜のお世話もしておくからね、任せておいて」
アリサも跳ねながら手を振る。とさかのように髪をたてたいかにも品のない男が黄色い声を上げてかわいらしく跳ねている。その姿をみて、ダークの妻がひいていた。
わたしはおおようにうなずいて見せた。最近の公爵は下民から豚呼ばわりされても怒ったりしない。親切で紳士的な豚なのだ。
ウィリアムだって努力して変わっているんだよ。
今のままでは破滅へまっしぐらということをようやく理解できたからね。
家の中が愚民どもに荒らされても、文句は言わないよ。
いままでいた召使いのほうがやりたい放題だったことに気がついたからね。
周りのものたちが頭のおかしい平民だらけになっても、無礼な、とか、ゲスどもが、と見下したり憤ったりすることもなくなってきた。
彼らよりもよほど貴族連中のほうがたちが悪いことも知ってるからね。
何よりも、慣れだ。豚公爵は平民達に混じって生活することになれてしまったのだ。
慣れは怖い。
馬車の旅は予想外に楽しかった。
遠足に娘も参加することを知ったウィリアムは喜んでいるから、私も気分が高揚している。
今の公爵は愛しい娘に会える期待で頭がいっぱいだ。このまえ、すげなく扱われたことなど
忘れたかのように。
この病だけは治らないんだよね。
トールとマーガレットの適切な処置のおかげで、ウィリアムは薬の副作用に悩まされることが少なくなっている。虫食いのように穴の空いた記憶は戻らないけれど、ウィリアム本来の気性がじょじょに復活してきている。それでも、ただひとつかわらないもの、それは娘への過度な執着だ。
前は豚公爵が娘に執着するところだけ正気のように感じていたが、実はこちらの方がより深い病なのではないかとわたしは感じている。
ふと気を抜くと、ああ、エリザベートたんかわいいよ、などとわたしも思ってしまうんだな。豚公爵の影響恐ろしい。
いや、昔からエリザベータ様に踏みつけられたい、はぁはぁ、なんて思っていたわけではないよ。わたしは変態豚とはちがうからね。けして、冷たい瞳でこちらをにらむわたしの娘よめ、ラブ、なんて思ったことはないよ。そんな趣味の人もいるよね。うん。
村までの旅は順調だった。腐ってもわたしはゴールドバーグ公爵なのである。肩書きだけで、すべての検問を通してもらった。こんなにうるさい官吏を気にしなくてもいい気楽な旅は初めてだとトールは笑う。マーガレットさんは警備がなっていないと怒っていたけれど。
表向きはゴールドバーグ公のお忍びの視察ということにしてある。どこかのご老公様のように世の中を見て回るという、アレだ。身分を伏せて、こっそりと自領を見回るということになっているけれど、紋章付きの馬車に乗っている時点で誰だかバレバレだ。
ウィリアムは自分の領地を視察するのはこれが初めてだという。
娘が生まれてからは一度も自領に足を踏み入れてないって? それでも領主様なのだろうか?サボりすぎだよ。
ゴールドバーグ領は確かに豊かな穀倉地帯だった。
見渡す限り畑、畑、畑・・・森や林があってまた畑・・・要するに、ど田舎だった。領主の館があるあたりには町があるらしいのだが今いるあたりはそのかげもない。
ひたすら人の少ない地帯を馬車はいく。
村々は収穫の時期を迎えていた。住人すべてをかき集めて、収穫作業の真っ最中だ。
まずいときに来てしまった…そのことに気がついたときは遅かった。
行く村々で、くたびれきった人々が総出で歓迎してくれようとする。
でも、迷惑なんだよね。一番忙しい時期にお偉いさんがふんぞり返って現れるというのは。
空虚な笑顔を貼り付けて、歓迎されてもうれしくないよ。
途中から先触れを出して、歓迎無用をいってまわる。それでも、歓迎しようしてくれるんだよね。公爵が好かれているわけじゃない。歓迎しないとあとで何をされるかわからないから、怖いから無理をしている。
料理も花もいらないから、収穫に専念してくれよ。
さすがの豚公爵も、気遣いのなさを反省している。
「急いで目的地まで馬車を飛ばそう」わたしは下を向いてもごもごと提案した。「なるべく人のいないところを通って行く」
「人の少ないところって、追いはぎに遭うかもしれないぞ」トールがまっとうな意見を述べる。
「ゴールドバーグ領はそんなに治安は悪くないぞ、たぶん。それにトールたちがついてるから大丈夫、だろ」
「それはそうなんだけど」マーガレットさんは扇を仰ぎながら、外を見た。「こんな派手な馬車、格好の獲物なのよね」
彼女は、豚公爵の秘書兼愛人という触れ込みでついてきた。クラリスを除いては御者も侍従も全部トールの口入れ屋からの借り物だ。ゴールドバーグ別邸の連中には首を突っ込まれたくなかったからだ。柄の悪い連中だが、金さえ出せば何でもしてくれる。ウィリアムを幽閉していた本来の召使いたちよりもよほど信頼できる。悲しいことだが。
「ま、あと少しだからなんとかなるだろ」
馬車は山道を抜けていく。かなり急な坂道で何かに捕まっていないと天井に頭をぶつけそうだ。正直揺れで気分が悪い。
地獄のような坂道を降りると、また畑が広がっていた。
青々とした植物が生えている。
「ちょっと待って」豚が馬車を止めさせた。
「どうしたの?」
「いや、わたしじゃなくて、ウィリアムが・・・」
ウィリアムが肉体の主導権をとってまで行動を起こすのは珍しい。
ここは、なんだか、変だ。
ウィリアムが馬車から降りて周りの畑をみている。エリザベータと関係のないことに豚公爵が反応するなんて初めてだった。
なにが?わたしは豚に感覚をあわせてみる。
ああ、麦じゃない作物が植えてあるね。
今までみてきた穂をつけた植物はここの畑には植えられていなかった。みたこともないまだ青々とした植物が整然と植えられている。
豚公爵はよたよたと畑に降りて、土をすくった。
土の力が落ちている・・・ウィリアムが心の中でつぶやく。なんでこんなに、力がないんだ?
ぱさぱさとした土が手のひらからこぼれる。
この植物のせいかな?感覚を同調しているわたしはやせた土地から元気に生えている植物の葉を一枚ちぎった。
強い植物は土の中からすべての栄養素を吸い上げてしまうと聞いたことがある。
「そこ、何をしている」
背後から鋭い声が飛んだ。
「なぜ、ここによそ者がいるんだ」
鍬を構えた農民らしき男たちと、剣を佩いたいかにも悪そうな男が偉そうにこちらに近づいてきた。
「この方を誰だと心得る!」
トールがどこかで聞いたことのある台詞で怒鳴りつけた。
「先の名宰相(の息子の)ウィリアム・ゴールドバーグ様だぞ。頭が高い、ひかえおろう」
あ、息子ってところわざと小さくいったね。完全に台詞、パクっているし。
「ウィリアム様?」
「公爵様は向こうの道から来るって話じゃなかったのか?」
「この豚が、公爵?」
農民たちがひそひそと話している。
剣を持った男は咳払いをして農民たちの口を封じてから、剣を外してひざまずいた。
「もうしわけありません、ゴールドバーク様。まさかこちらの道から来るとは思っておりませんでした。無礼な振る舞い、ひらにお許しください」
深々と頭を下げられる。どんな表情をしているのかわからないが、絶対反省なんてしてないね。
「うむ、まぁいい」ここはさらりと流す。「こちらも道を間違えてしまったようだ。ところで、この草はなんだ?」
「この草でございますか」男は顔を上げて笑って見せた。「大変申し上げにくいのですが、その、私ども、こういった植物には詳しくなく…」
嘘つけ。わたしは突っ込みを入れた。
「そうか、そなたはしらないのか。そこの後ろの、農民、おまえたちなら自分が育てているもののことはよくわかっているだろう。これはなんだ?」
「これはですね」しーっという制止の声があがる。
「えっと、これは…」声を上げてしまった農民がもごもごと口を動かす。「これは・・・」
「これは夜来草ですよ」別の声が割って入る。
「今、開発している薬の元になる植物です。公爵様、ようこそこちらにいらっしゃいました。お待ち申し上げておりました」
甲高い聞き覚えのある少年の声だった。その声を聞いたトールの表情が変わる。
わたしたちは彼のことをよく知っていた。
ゲームの中でさんざんお世話になった商人Aが笑顔でこちらを見上げていた。