「これはなんだろう?」
僕はフラウに紙を渡した。
僕たちは砦のみんなから頼まれたもののリストを仕分け中だった。
ここに来た目的はほぼ果たされた。
フラウが光板を使って確かめたところ、装備の申請は許可されていた。あとは、物が届くのを待って、積み込んで帰るだけだ。その前に、砦のみんなから頼まれたものも調達しなければならない。
古物屋に頼むもの、ここの女将に頼むもの、僕たちが買い出しに行くもの、それから、いったいこれがなんなのかわからないもの。
「ぱりふぇ……なに、これは?」
メモの中にはあまりにも字が汚くて読めないものもある。そういうものに限って、前金を渡されていたりする。
「ルーシー人形? おもちゃかな?」
砦には子供はいない。まぁ、野人はいたけれど、あれはおいておこう。
僕たちが、首をひねっていると、ヴァイスさんが覗き込んだ。
「あらあら、これはあたしたちがよく使う……」
「わかりました。調達をお願いします」
説明部分をフラウに聞かせたくはなかったので、言葉をかぶせた。
「あら、これも、あたしたちの……」
「すみません。ここで手に入れることができるものはありますか」
僕はリストそのものを差し出した。
「あら、何に使うのか知りたくないの?」
「いいです。結構です」
ヴァイスさんはぶつぶつといいながらもリストをあらためる。
「まぁ、大体は手に入れることはできるけれど、ああ、これは、ポナペンチュラのところに行けば、大丈夫ね」
姐さんはあっという間に僕らが何なのか迷っていた品物を分けてくれた。
「明日、お買い物行くのかしら」
「はい。そのつもりです」
「また、あの道具屋のところへ行くんでしょう。あそこへは私が案内するわね」
ヴァイス姐さんはとても親切だ。いつの間にか、彼女は僕たちの担当のような立場になっている。
「いいんですか? ヴァイスさんのお仕事は?」
「これはあたしの仕事だから、気にしなくてもいいのよ。そうね、でも、あたしにお礼をしてくれるつもりなら……」
「明日よろしくお願いしますね」フラウが強引に話を元に戻す。
「ただ、問題はね。いくつかのものが手に入りにくい、ということなの。いわゆる、ご禁制品ね」
ヴァイスさんがリストをトントンと叩いた。
「あなたが、等級監督官の話をしたでしょ。ヴェルミオン姐さんが怖がっちゃって、ね」
「禁制品を取引していたんですか?」フラウの声が固くなる。
「してないわよぉ。でもね、たまたま、たまたまよ、なぜかそういうものが荷物の中に入っていたりするのよ。驚きよねぇ」
本当に驚きだ。乾いた笑いしか浮かべられない。
しかし、困った。
ヴァイスさんのいうご禁制品、よりによってそういう品物に限って前金を渡されていたりする。
「どこかで手に入れられる当てはないかしら」
ないことはない。でも。僕はためらった。
「アークちゃん?」
「あるには、あるけど。どうかな」僕は腕を組む。「ずっと昔のことだから、もう、いないかもしれない」
「アーク、なぜそんな人を知ってるの?」フラウは非難がましく聞いてきた。
「あー、子供のころの話だ。その、使い走りをしていたんだ。まぁ、ガキだからたいしたことはしていないんだけど、そいつはその、ブツを扱っているという評判だった」
「それはなんという男?」ヴァイスさんなら知っているだろうか?
「……西町のハゲって、僕らは呼んでた。本当の名前はたぶん別にあったと思うけれど、僕らの間ではそれで通用したから」
ヴァイス姐さんはゆっくりと椅子に座り込んだ。
「何となく心当たりがあるわ。彼と話をするのなら、そこへもあたしが付いていったほうがよさそうね」
「そんなに危ないところなのね。私も、武器でも持っていたほうがいいかしら」
「え?」僕とヴァイス姐さんは顔を見合わせる。
「フラウも行くの?」
「え? ダメなの」
「行かないほうがいいと思うよ。そんなに見ても楽しいところじゃないから」僕は早口で力説した。「だめ、絶対にダメ。フラウみたいな子供にとって、あそこは危険なんだ」
「でも、あなたはそこで育ったのでしょう?」フラウは首をかしげる。「それなら、私だって……」
冗談じゃない。僕とヴァイス姐さんは二人がかりでフラウの気を変えさせようとした。あそこは、そこで育ったものがいうのも何だが、人の住む場所じゃぁない。お嬢さま育ちのフラウが行くようなところじゃないのだ。
「あのね、あなたたち、私のことを何だと思っているのかしら」やり過ぎたのだろうか、フラウが怒った。「わたしは、自分で自分の身くらい守れます。そういう訓練も受けているの。いざとなれば、光術を使うし、隠し武器の一つや二つ、使えるの。いい、あなたたちだけに勝手なことはさせません。私も行きます」
「これはだめだわ」陰でヴァイス姉さんが嘆いた。「フラウちゃん、本気でついてくるつもりだわ」
「どこかで、まきますか?」
「そんなことをしてごらんなさい。後でどんなことになるか」
ああ。フラウに機嫌を損ねられたら、それは大変だ。単身で西町に乗り込んできて、厄介ごとを巻き起こして、挙句の果てに焼け野原を作りかねない。
次の日、僕らはまた軍服を脱いで私服に着替えた。
「それを持っていくつもり?」
腰にこれ見よがしに光術用の杖を下げたフラウにヴァイスさんは目をむいた。
「ええ。武器が使えることを見せつけたほうがいいと思って」フラウはさらりといった。「聞き分けのない人たちには、武装していることを隠さないほうがいいとききました」
「ど、どうかしら」
フラウのような子供が下げていると逆効果かもしれない。そう思ったが姫君には逆らえなかった。
まず、僕らが向かったのはこの前の古物商だった。そこで変えてもらえるものを確認する。
店主とフラウはまた長々と交渉を始め、僕は黙って魔道具をいじっている小ポナペンチュラと取り残された。
「なぁ、おまえ、砦にいるんだろ」
いきなり、小男が話しかけてきた。いままで、僕のことをそのあたりの置物と思っているのではないかと思うくらい無視していたのに。
「そうだよ」僕はぶっきらぼうに答える。
「あそこには、ボクのおもちゃがあるんだろう。たくさん」
「魔道具はあるよ。でも、そのあたりに転がっているわけじゃない」
この男なら、魔道具が畑に生えてくるといいそうだった。
「うん、知ってる」男は素直にそれを認めた。
「お前たちが掘りに行ってるんだろう。遺跡に」
男はなぜかもじもじと手にした道具を探る。
「あの、ボクを砦に連れて行ってくれ」
「…………」
唐突にそんなことを言われて、僕は小男を見た。
「だから、ボクを砦に連れて行ってほしい」
聞き間違いではなかったようだ。僕の頭は状況が飲み込めていない。目の前の男は変人だと思っていたけれど、ここまで狂っているとは思っていなかった。
「あんた、正気か? あそこはあんたみたいな坊ちゃんが行く場所じゃない。おもちゃ売り場じゃないんだぞ」
「そんなことはわかっている」
男はいらいらと体をゆする。
「あのな、あそこにいるのは兵士だけだぞ。おまえ、兵隊じゃないだろう」
その体は絶対に運動不足だ。あそこの暮らしには耐えられない。
「兵隊でなくても、住んでいる人はいるんだろう?」
「それは、特殊な人たちであって、あそこは軍の管轄する場所だ。行くにはそれ相応の許可がいる。おまえ、許可を持っていないだろう」
出るわけもないしな。彼が軍隊に入るところはどうやっても想像ができなかった。
「だめに決まってる。ダメなものはだめだ」
小男は、体をゆするのを止めた。居心地の悪い間で僕が体をゆすりたくなる。
「じゃぁ、またな」
僕は彼があきらめたのかと思って、フラウが何をしているのか見ようと小男の前をすり抜けようとした。
「待て」男が手をつかんできた。意外に強い力だった。
「おまえ、ボクのことをヘンジンだと思っているだろう。魔道具のことばかり、考えていて、他のことに興味を持たないゴクツブシだって。でも、ボクだって、いろいろやろうとしてきたのさ。兄さんたちみたいに、商売とか、取引とか……でも、向いていなかった。おまけに等級が低いから上級学校にも通えない」
小ポナの手を振り払うのは簡単だっただろう。でも、あまりに必死な彼を振り払うことは僕にはできなかった。
「このままここにいては、ダメなんだ。親父にも、みんなにも、迷惑をかけている。だから、連れて行ってくれ」
僕はため息をつく。
「行くのなら、何も砦でなくてもいいだろう。あそこは魔人が出るんだぞ。魔人が出たら、砦が全滅することもあるんだぞ。そんなところに行きたいだなんて……」
「あそこじゃないとダメなんだ。あそこには、僕のおもちゃがたくさんある。おもちゃをいじっていても何もいわれない。自由があるんだ」
自由……その言葉にハッとした。
いろいろといいたいことはある。お前みたいなやつは偵察に行って真っ先に死にそうだとか、怖いお兄さんたちにいじめられるかもしれないとか。
でも、魔道具いじり以外に何の興味もなさそうなこの男がここまで真剣になったということが僕の心を動かしていた。
「あのな、そういうことは僕には決められないんだよ。いろいろな人と話してみるから、ちょっと待ってくれ」
何かしてやりたいという気持ちになっていた。
でも、僕に何ができるだろう。こうして、言葉を並べて拒絶の言葉を先延ばしにするくらいしか今はできない。
「待っている。なんでもするから」
男はささやいて、ようやく僕の手を離した。
僕がようやくフラウのところに向かうと、大体の話がまとまっていた。
「アーク、荷馬車を貸してくれるって」
「御者もつけてくれるんだろうな」
「もちろんよ。御者と馬の世話係込みで」
ちらりとポナ坊ちゃまのほうを見たが、彼はこちらのやり取りに頓着なく、魔道具をいじりまわしていた。
「また、伺いますね」
「次からは、こちらに連絡をください」
老ポナはフラウと僕に店の名前の入ったカードを渡す。
「こちらに用向きを伝えると、私のほうに伝わるようになっています」
名前を改めると、そこは上町の店の場所と店の名前が刻印してあった。古道具屋ポマ
うん、そのままだった。
「なんで、最初からこちらの店にこいといわなかったのかな?」
ヴァイスさんは肩をすくめた。
「そちらは、表のお店。全然やましいものを扱っていないまっとうなお店よ。裏の商品なんてやり取りできるわけがないでしょ」
ちゃんとした商売もやっていたんだ。僕は、内ポケットにカードをしまい込んだ。
「さて、次はどこへ行こうかしら。上町でお茶をするなんてどう?」
ヴァイスさんが手を打った。
「そうよ、あたし、行きたいお店があるの。おいしいお菓子が売り物なのよ。ね、一緒にどうかしら」
「先に用を済ませてしまいましょう」フラウがぼそりとつぶやく。
「あ、やはりだめ?」
「だめです」
僕とヴァイスさんはこっそりため息をついた。
僕はかつて僕がよく知っていた町に再び足を踏み入れた。もう二度とここに戻ってくるつもりはなかった。懐かしさはかけらもなく、町の入り口を見ただけでどんよりと気分が落ち込んだ。他の区画では取り壊されたか目立たなくなっている壁がここにはまだ現存していた。
頑丈な石で組まれた厚い壁を抜けていく。かつて、内地と黒の大地はこのような壁で分けられていた。このような通路は一方通行で、ここから先は帝国の外側だったそんな時代もあったのだ。
今は抜け道もたくさんあるし、僕もあまりこの道は通ったことはない。ただおそらく一番安全な道がここだから、僕はここを選択せざるをえなかった。
人の目を感じた。よそ者を監視するいやな視線だ。
壁に沿って、寝ているのか倒れているのかわからない人がたくさん座り込んでいた。僕はフラウの腕をつかんで僕のそばに引き寄せる。
「ちょっと」
「いいから、なるべく真ん中を歩いて」
「あの人、死んでいるんじゃぁ」
明らかに死んでいる人を見て、フラウは息をのむ。
「いいから、気にしないで」
僕は目の端で遺体を確認してフラウの手を引いた。
「でも……」
「病気を持っていることもある。処理人がいるから、任せて」
たまに死体のふりをした強盗もいる。関わり合いにならないほうがいい。
「助けなくてもいいのかな」フラウはそれでもまだ気にしている。
「助けられないよ。埋葬する人がいないということは、そういうことなんだよ」
僕は振り返るフラウを促す。
「あの人も?」
一人の横たわっている人に子供が何人か群がっていた。フラウが見ていることに気が付くと、子供たちはぱっとどこかへ姿を隠す。
「あれはただのゴミ漁り。あまり見ていると襲われるから、気を付けて」
フラウの目が泳いでいた。何を見ているのだろう。僕は、あたりを警戒する。
小さい時にどうやってこの環境で暮らしていたのか、わからなくなっていた。勘が落ちている。僕は臭気をすこしでも防ごうと口と鼻を外套の端で覆った。
フラウが袖を引くので、そちらを見ると汚れているが派手な服を着こんだ子供が何人も座り込んでいた。
うつろな目がこちらを追う。
「あんまり見ると、商売の邪魔になるから、行こう」
「う、うん」
「こっちだ」
僕は子供のころの感覚を思い出す。思い出そうとした。
でも、ただでさえ狭かった道がもっと狭くなり、抜けられた通路が通り抜けできなくなっていた。ゴミや建材が新しい迷宮を作り出して、以前の光景を思い出すことすら困難になっている。
「まいったね」
「迷っちゃった?」
ヴァイスさんがあきれたようにきく。
「こんなところだったかな」
「アーク……」
あきれたような声をフラウが出して、僕の腕を振りほどいて前方のゴミの山を見に行く。
「フラウ、危ないから……」
そういおうとしたとき小さな影が目の端に現れて、フラウにぶつかった。とっさに僕は彼女の体をひく。
「なに?」
「きゃ」
影はあっという間にどこかへ消えてしまう。
「フラウ、大丈夫?」
「ええ。かすられただけ」
「なにか、無くなっているものはない?」
えっとフラウは体を探る。
「お金は持っていないし、武器はあるし、あ」フラウが声を上げた。「護符がない」
「護符?」
「外見をごまかす、護符がないの」
彼女は慌てて体を探る。
「どうしよう。あれがないと、外見がごまかせない」
僕は慌ててあたりを見回したが、もう盗人はどこにもいなかった。
フラウの髪が少しづつ黒から灰色へと変わっていく。ヴァイスさんが素早く首に巻いていたスカーフをはずして、フラウの頭に巻き付けた。
「これで、あとは外套を深くかぶって。大丈夫。この辺りの連中は人の顔など見やしないから」
動揺するフラウの肩を抱くようにして僕らはその場を離れた。
「あれれ、どうしたのかなぁ」
少し広い通りに出たところで、一人の男が笑顔で声をかけてきた。
「お兄さんたち、道に迷っちゃった?」
わざとらしい。先ほどのすりの仲間だ。よくて盗んだものを高値で売りつけるか、もっと高価なものがはぎとることができそうだったらわき道に引きずり込むつもりだろうか。
僕は、その前歯のかけた若い男をにらんで、そして、ふいに思い出す。
「ロス? おまえ、歯なしのロスか?」
「なんだよ。おまえ」先ほどの表面だけの笑顔はあっという間に消えた。
「僕だよ。アーク、隣の横町に住んでいた。ほら、お前が歯を折ったときに抜け道を教えてやったじゃないか」
男の表情が警戒、困惑、疑いと目まぐるしく変わった。
「アーク、アークってあの弱虫かよ。嘘だろ。おまえ、死んだんじゃぁ」
「やっぱり、ロスか、久しぶりだな。豚のコリンやネズミはどうした?」
「おまえ、え? 本物かよ。いったい今までどうしてたんだ? あのあと、大変だったんだぞ」
目をむいて、喋りまくるロスを軽くいなす。
「だろうね。ハゲ親父、いるんだろ。案内してくれない?」
「ハゲ親父って、いるけどよ。おまえ、あいつに何の用なんだ? あれから、あの親父ますますがめつく陰険になってよ」
ペラペラと話す男の後をついていく。
「まだ、この辺りをあのハゲが仕切ってるんだ?」
「ああ。あのあとよぉ。他の連中は消されるか、逃げるかしたんだけどよぉ。なぜか、あの親父だけは、あ、こっちだ」
ハゲ親父と呼ばれていた男は昔いた場所の近くに巣を構えていた。巣という言葉がふさわしいごたごたとゴミの山が積み重なった家というのか廃墟というのか。店というのもためらわれる入り口周りを用心棒たちがうろついていた。
あからさまにこん棒をわざと振り回している野卑な男たちのそばを抜けて、中に案内される。
「親父、面白い客を連れてきたぜ」
ロスは奥の扉の前で声をかける。
「なんだ、ロス、変な奴を連れてくるな。へなちょこどもは追い返せ」
しゃがれた声が戻ってくる。昔はこの声が聞こえてくるたびにびくびくしていたものだ。
僕がヴァイスさんのほうを見ると、彼がうなずいた。
「それがだなぁ」
「やぁ、お久しぶりです。親父さん」
僕は扉を開ける。
あだ名の通り、頭のてっぺんが光っている赤ら顔の男が根を下ろしたように椅子に掛けていた。昔は見上げるようにして見ていた脂ぎった肌が今では見下ろせるようになっていた。
「おまえは、誰だ?」
ハゲ親父の後ろで、ガラの悪い男たちが奇妙な形をした武器を構えているのが目に入った。
「僕ですよ。アークです。覚えてますか? ジイサンのところに通っていたアークですよ」
「アーク?」ハゲは眉をひそめてから、飛び上がった。
「アークだと。あの、ノインのところのアーク? 馬鹿な。生きているはずが」
ハゲは机の下に手を伸ばす。
「なんだ、なんだ。まさか、墓場からよみがえったのか。復讐に来たんじゃないだろうな。それとも、坊主どもの犬なのか? くそ、坊主どもが」
予想していた反応と違う。忘れられていて追い出されるか、思い出して昔話の一つでもするか、どちらかだと思っていた。
いきなりわめかれて、武器を向けられるなんて。こんなにハゲ親父は喧嘩早い男だっただろうか。
「ちょっとぉ、落ち着きなさいよぉ」
素早くヴァイスさんが割って入る。
「アークちゃんは、亡霊でもなければ、犬でもないわよぉ」
ヴァイスさんはさらりと外套をはずす。どんな技を使ったのか、彼はハゲ親父の手を机の上に縫い付けていた。
「アークちゃんはただのお客。あなたの品物を買いたいんですって。あたし? あたしはただの仲介役よ。はじめまして、あなたが穴倉のレクさんね。あたしはヴァイス。子猫の館のヴァイスといいます。よろしくね」
「子猫……あの、凶悪オカ……」
「失礼な。あたしたちはオンナ。外見はあれだけど、心はオンナなの。そこのところ、よろしく」
そういいながら、ゆっくりと武器を押さえていた手をはずした。
「おまえ、本当にアークなのか。まさか、監督官に連れていかれたやつで戻ってきたやつはいねぇ。名前をかたってる偽物とか、ありえねぇ」
ハゲは、小汚い机の上から瓶を持ち上げてあおる。
いったい僕はここではどういう扱いになっているのだろう。予想以上に大ごとにされているような気がする。
「どういうって、まぁ、色々とありまして」
僕はなんといっていいのか、困った。助けを求めてヴァイスさんやフラウを見たけれど、ヴァイスさんは微笑んでいるばかりで、フラウは表情を殺している。
「いや、ただ、ちょっとしたものが必要になって、親父さんなら持っているかなって。それで訪ねてきたんですけれど」
「なんだ。なにがいるんだ」
脂汗を浮かべながら、ハゲは椅子に座りなおした。
「えっと、これなんですけれどね」
僕がメモを渡そうとすると、周りの護衛が反応した。こっちのほうがびっくりする。いったんひっこめた紙を前よりも慎重にゆっくりと差し出した。
ハゲはひったくるようにして紙をつかんだ。
「なんだ。これは?」
「これは、知人に頼まれたんですけれど、親父さんなら手に入れられるかと思いまして」
ハゲは鼻を鳴らした。
「こんなもの、西町のオカマ……子猫なら手に入れられるだろう。なんで、ここにきた?」
「それが、姐さんのところでは無理だと断られたんですよ」
「あたしたち、そんなもの取り扱っているわけないじゃないの? 見たことも聞いたこともないもの」
ヴァイスは手で口を隠して笑った。
ハゲはじろりとヴァイスさんを上目遣いに見た。
「対価は? ちゃんと持ってきたんだろうな」
「それはもちろん」
ヴァイスさんが一枚のカードを懐から出してひらひらとふる。ハゲは机の引き出しをガサゴソと探して、小さな箱のようなものを取り出した。ヴァイスさんがカードを机に投げると、それを差し込んで何かを確かめる。
ハゲは後ろの男にメモを渡した。
「わかった。ブツは用意してやる。あとで、西町に送ってやる。その時に決済だ」
「はーい、了解です。ありがとう。感謝しているわ」
「だから、さっさと、ここを出ていけ。いますぐに。二度と戻ってくるな」
「そのまえに、もう一つ」ヴァイスさんが口調を変える。「さっき、そこでこの小さい子の持っていた首飾りをすった奴がいるの。小さな魔道具なのだけれど、値打ものなの。どこかでみかけていないかしら」
「そんなものは知らないな」
「でしょうね。でも、どこかで、ひょいと出てくるかもしれないじゃない? まさか、あなたのところでそんな落とし物を勝手に自分のものにするわけないわよね」
「落とし物が、でてきたら、それも一緒に送ればいいんだな」
「ええ、よろしくね。あと、お店に遊びに来るのならサービスしてあげるわ。後ろのお兄さんたちもぜひいらしてね。新しい、世界を、見せてあげる」
姐さんが特大の営業用の笑顔と投げキスを送ったにもかかわらず、男たちはにこりともしなかった。
「あらあら、愛想のない人たちだったわね」
店を出たヴァイスさんがつぶやく。
「ありがとう。姐さんがいてくれて助かった。まさか、あんな対応されるとは思っていなかった」
僕は礼を言う。
「あの、姐さんたちって恐れられてる? ひょっとして、ものすごく、その、武勇伝があったりするのかな?」
「あの男が恐れていたのは、あなたのほうじゃないかしら」ヴァイス姐さんは口をすぼめた。「まぁ、あたしたちがちょっと名前が売れているのは認めますけどね。特に、ヴェル姐さん」
ちょっとじゃないだろう。この混とんとした街でも名前が売れているとは。ひょっとして思っていたよりもずっとすごい人たちなのかもしれない。
僕は宿に帰るのが怖くなってきた。
「魔道具のこと、ありがとうございます。あれがないと、やはり」
フラウは髪に手をやる。頭を覆った布からのぞいている髪はすでに灰色になっていた。
「いいのよぉ。気にしないで。すられたままだと、あたしが付いてきた理由がないじゃない。じゃぁ、お楽しみと行きましょう」
ヴァイス姐さんは明るく笑った。
「上町にあたしの行きたい店があるのよ。そこで、お茶をしましょうよ。あ、その前に、お洋服とか装飾品とか、お土産屋さんにも行きましょ」
途中で見かけた巨大な光板で時間を見るとちょうど昼時だった。巨大な広告板の中でキラキラと光る女優がうっとりとほほ笑むと、手から鳥が飛び立った。どうやら最新の化粧品の広告らしい。
この辺りまで来ると、治安がだいぶ良くなってくる。兵士が二人番をしている広告板の前の道には死体は転がっていない。出店も並んでいて、食べ物の匂いが漂ってきた。
フラウがそわそわと屋台の饅頭をうかがっている。
「フラウちゃん、食べたいの?」
「いえ、どんな味がするのかなって」
「本当は上町でおいしい食事を食べようと思っていたのだけれど、一つくらいいいわよね」
ヴァイスさんがほかほかと湯気を上げる饅頭の包みを買ってきた。
「ありがとうございます」
包みを受け取るととてもうれしそうにフラウは笑った。こういう笑い方をすると外見相応に子供っぽく見える。
「こうやって、歩きながら食べてみたかったんです」
彼女はフーフーと肉入りの饅頭をさましながら、嬉しそうにいう。
「ひょっとして、こういう食べ方をしたことがない?」
「あるにはあるけれど、本当に小さい時。叔父様とお祭りに行ったとき以来なの。候補に選ばれてからは勉強が忙しくて」
フラウの表情に影が差す。僕はその憂いを気が付かないふりをした。
僕らは肉汁のついた指をなめながら、表通りから裏通りに回った。
「表から行くと、色々面倒なのよね」
ヴァイスさんは僕の知らなかった道を通って上町に入る。
「へぇ、こんな道があるんですね」
「この道は、兵士と会うことがないからいいのよ。直接外壁を抜ける道にも通じているしね」
なんでそんな道を知っているのか聞くのは野暮だろう。
上町は下のごみごみした街とは雰囲気が全然違う。整然とした内地と見まごうような建物が並び、あちこちには光版がおかれて、宣伝や番組を流していた。道路も清潔で乾いている。
それでも、裏に回ると僕らのような下町から勝手に侵入してきた連中がうろうろしているし、ゴミが散らかっていたりするのだが、悪臭が漂うようなことはない。
ここで暮らしているのは、内地からやってきた人や将校クラスの兵士たちだ。つまり、等級の高い人が集っている町だった。
ヴァイスさんは外套を脱いだ。金色がかった茶色の髪に薄い青い目をした彼はどこから見ても等級の高い美青年だ。
「あなたたちはそのままのほうがいいわ。ここではあたしがご主人様で、あなたたちはお付きね」
いたずらっぽくヴァイスさんは笑った。
「さぁ、あなたたち、今日は目いっぱい楽しむわよ」
堂々と道の真ん中を歩くことに最初は緊張したが、すぐに慣れた。なんということはない。“僕”が町に遊びに行くときと同じようにふるまえばいいのだ。
「まずは、腹ごしらえよ」
ヴァイスさんは表通りのいかにも高そうな店に平然と入る。まさかの、顔パスだろうか。
当たり前のように奥の席に腰を下ろして、僕たちに同席するように勧め、メニューを頼む。
従業員も、僕たちの等級は見なかったものとして丁重に扱う。
「好きなものを注文してちょうだい」
「いいのですか?」フラウが尋ねる。
「ええ。大丈夫よ。この店の主人はあたしの上客なの」
何を食べていいのかわからなかったので、ヴァイスさんおすすめの肉料理にした。
がっつり肉の料理だった。大きい肉の塊に酸味のある甘いソースがかかっている。塊にもかかわらず、ナイフがすっと通る柔らかさで口の中でとろけるようだった。こんなおいしい料理は“僕”も食べたことはない。
夢中になって食べている姿を見て、ヴァイスさんは満足そうだ。
「おいしいでしょ。ここの名物料理なのよ。男の子にはぴったりだと思って。フラウちゃんは、どう?」
「はい、おいしいです」
フラウは“僕”の知っている“くりーむしちゅー”の豪華版を食べていた。
「それはよかったわ。舌の肥えている内地の人に褒められたら、料理人も喜ぶわ。それはそうと、アークちゃん、あなたのご両親、内地の人だったの?」
「いや、僕の両親はこの辺りの生まれだけれど」
なぜ、そんなことを聞くのか、僕は首をかしげる。
「ううん。食べ方がきれいだな、と思って」
「学校で仕込まれたからかな?」
ずらりと並んで無言で食べ物を胃に入れていた時のことを思い出した。料理の味が急になくなる。
「ごめんなさいね。変なこと聞いちゃった」
「ヴァイスさんは、内地の生まれですよね」思い切って聞いてみた。
「そうよ。あたしは、星都の出よ。いろいろあって、ここに流れてきたの」
フラウちゃんと同じね、と軽く流す。
「結構多いのよ。あたしみたいな人間は」
一度堕ちると這い上がれないのよね、そう彼はもらした。
「それよりも、フラウちゃんは、どんなお店に行きたいのかしら。お土産といってもいろいろあるでしょう?」
「そうですね。まず、お世話になっている姐様たちへのお土産と、装飾品がいいと思うのです。おばあ様へは、温かいひざ掛け、それからサラちゃんのお菓子とか……」
フラウが指を折って数え始める。
「なぁ、フラウ。頼まれていたお土産も忘れないでほしいな」
一体どれだけの物を買うのだろう。僕は不安になった。
女の買い物は長い。僕はそれを実感した。
ヴァイスさんとフラウはあちこちの店をはしごした。ああでもない、こうでもないといいながら、結構な量の品物を買っていく。その荷物を持つのは、お付きの僕だ。
「さぁ、次に行きましょう」
「ちょっと待って、休ませて」
僕は荷物を抱えて、ふらふらしている。
「仕方ないわねぇ。あと一軒だけ回るから、そこの噴水のところで待っていて」
ヴァイスさんが広場の中にある七色に輝く泉をさした。
「それが終わったら、念願のお菓子よ。さぁ、行きましょう」
女二人?は僕を残して、最後の店に突撃していった。
僕は、大きな噴水の脇に腰を下ろして休んだ。
噴水の周りには子供たちが集まって、芸人が人形劇をしているのを見ていた。そういえば、小さい時はこっそりこの辺りまできてああいう大道芸を見物していたな。そんなことを思い出す。
「”まだら”のおとこはいいました。もし、わたしにその金の種を分けてくれたならば、まものをたいじしてみせましょう」
僕も知っているおとぎ話だった。
“まだら”の邪悪な“外れた杖”の物語だ。言葉巧みに人々に取りいった“まだら”の男は報酬を払わないことに腹を立てて、町の人を連れて黒い土地に向かう。そこが楽園であると人々をだまして、黒い土地にいざない、そして一緒に行った人たちは魔人となって人々を襲う。それを光の勇者が退治するという子供向けの話だ。
「“まだら”のおとこはいいました。わたしとともにいこう、そうすれば、そこにはすばらしいばしょがある」
人形遣いは器用に黒いローブを着てつえを持った人形を操る。
「すばらしいところ、ぼくも、わたしも、いきたいな」
話を知っている子供たちが、黄色い声を上げて人形を止めようとする。
人形遣いが顔を上げた。
銀色の髪がさらりと揺れる。
僕は人形遣いを凝視した。
間違いない。シャンといっただろうか。補給係だといって、僕たちに近づいてきた女だ。
「それでは、おまえたちをつれていってしまうぞ、がお」
黒い人形は本性を現して、背中から黒い布を出して逃げ惑う子供人形を包み込む。
「こうして、“まだら”のおとこはこどもたちをつれていってしまいました。おしまい」
「えー、勇者さまは? 聖女さまはいないの?」子供たちの間から不満の声が上がった。
「“まだら”をやっつけないと」「悪いやつをせいばい、せいばい」
「今日はここまでだよぉ。続きはまた今度ね」
銀髪の少女はにこやかに手を振った。
それから、当たり前のように僕のほうを見て笑いかけた。
僕は荷物を片付けている彼女のところへ歩いて行った。
「なんのつもりだ」
「なんのつもりって、なんのことかなぁ」
前からの知り合いのように気やすく彼女は返事をする。
「だから、なんで、ここにいるんだよ。それから」僕は頭をふった。「なんで、あの時、補給士官のふりをしてあそこにいたんだよ」
「ここにいるのは、芸を子供たちに見せるため。あそこにいたのは、君たちに装備を渡すためだよ」
「嘘だろ。神殿の人間が、なんで、軍人のふりをして現れるんだよ」
「軍人のふりってねぇ。ちゃんと、装備は用意したでしょ。仕事はしたよ」
女は人形を丁寧に布にくるんで、紐を巻いて止めた。
「むしろ、ボクに感謝してほしいくらいなんだけど。本職の軍人だったら、君たちに装備なんか用意しないよ。いつまでもだらだらと引き伸ばして、そのまんま。あいつら、職務怠慢だからね」
「フラウのことを探りに来たのか? あの子が、マダラだから、そ、その、始末するために」
声が震えた。怒りのためか、恐怖のためか、よくわからない。
「ちがうよぉ。たしかに、お姫様もどうしてるのかなぁ、とは思っていたけれどね。ボクは君に会ってみたかったんだよ」
「ぼ、僕を、始末するつもり……」
女は声をたてて笑う。
「違う、違うよ。それは誤解だよ。本当に見てみたかっただけ。大きくなったかなぁって。ああ、アハトの仕事を見たから、そう思い込んだんだねぇ。あんなことめったにしないよ。最近はね」
シャンの口調は率直で嘘はなさそうに思えた。それでも僕は彼女のことは信じられない。
「今日出会ったのだってたまたまだよ。たまたま、仕事で子供たちに芝居を見せていたら、君が通りかかったんだ。それで、ちょっと早めに切り上げた。子供たちは怒ってたけど、いいよね。本来の話に近い形で、終わったんだから」
本来の話? なんのことだろう。
「“まだら”の男は民を連れて、黒い大地に行ってしまいました。それで、お話はおしまい。ほら、聖典に書いてあるように、黒い大地は黒い民を飲み込んだ、だよ。勇者とか聖女とかは後付けだね。神殿の浅知恵さ」
シャンは、おそらく神官であるにもかかわらず批判的なことを口にした。
「そんなことよりもさ。もっと楽しい話をしようよ。“夢”の話とか、さ」
夢? 僕の舌が凍り付いた。
「最近どんな夢を見てる? “夢”の中で誰と会ってる? 君の“夢”の舞台はどこ? ああ、いきなり聞かれても困惑するよね。”夢”の話、他の人にしたことないだろ」
シャンはすべての荷物を片付け終えて、ひとまとめにして背負った。
「もう少し話していたいけれど、彼女、ちょっと大変なんじゃないかなぁ」
シャンの目線を追う。
小さな外套を着た人影が、無用に光る男と言い争っているようだ。
「姫君を助けるのは勇敢な騎士じゃないとね。気を付けて」
そして、またね、といわれた気がする。
その時には僕はフラウのほうへ駆け出していた。
「姫君」
「付き添いは結構です。私にかまわないでください」
フラウが嫌がっている。
「何を言っているのですか? このような下賤なものが多い街を一人で散策されるとは。私がお見掛けしなければ……」
あの門のところで見かけた勘違い金ぴか野郎だった。フラウは運悪くあいつに見られてしまったらしい。
「フラウ」
金ぴか野郎は僕のほうを見もしなかった。
奴の従者らしい男が僕の前に立ちふさがる。
「ゴミはそのあたりに捨ててこい」
「ちょ、待てよ」僕は従者につかまれた腕を振り払った。
途端に、殴られたような衝撃で僕は腰を落とした。
「アーク!」振り返ったフラウが叫びをあげる。
目の前の男が筒のようなものを構えていた。光術用の武器で攻撃されたのだ。しびれたような感覚が腹に広がる。
「さぁ。姫君」金ぴかはフラウに恭しく手を差し伸べた。「私が宿舎までお見送りしましょう」
「いらないといったでしょう。アークに何をするの」
フラウが逆に男に食って掛かる。
「この、マダラが。ギデオン卿のありがたい申し出に逆らうとは」従者が後ろで威嚇をする。
「まぁまぁ、諸君、押さえて押さえて」金ぴか男は光る自分を見せつけるようにゆっくりと手を広げた。
「姫君、行きましょう。これからは、このギデオンがお供いたしますから」
フラウの周りの空気が揺らいだ。僕の治療をした時とは違う攻撃的な力を感じる。目の前の金ぴか男はまだフラウの怒りに気が付いていなかった。
「ああ、そこにいましたか」
フラウの怒りの気配がふっと消えた。
彼女の後ろにヴァイス姐さんが立っていた。彼はフラウの肩に手を置いて自制を促している。
「お前は……」ギデオンが目をむく。
「姫君のお供をするのは私のほうが先約ですよ。そうですよね。姫」
ヴァイスさんは光っていた。目の前の金ぴか野郎を圧倒するほどの精密な光だった。密度も光度も金ぴか野郎に勝る。僕が生で見た光る人間の中では一番輝いていた。
「お役目ご苦労」彼はちらりとしりもちをついている僕を見た。「荷物を持ってついてきなさい」
僕が荷物をとって戻ってくる間ずっと、ヴァイスさんの光はギデオン卿を圧倒していた。僕が残りの荷物をまとめるのを確認してから、ヴァイスさんはフラウに微笑む。
「それではまいりましょうか。姫君」
差し出された手をフラウが握った。
呆然と見送る男たちをしり目に僕たちは広場を悠々と立ち去った。
裏通りに入ると、ヴァイスさんを包んでいた光がすっと消えた。
「もう大丈夫よね」
ヴァイスさんは後ろを確認してから、道端に座り込む。
「ヴァイスさん」フラウがあわててしゃがみ込む。「大丈夫ですか」
「ええ。あたしは平気。ちょっと、そこで水を汲んできてくれる?」
ヴァイスさんは道の反対側にある水盤をさした。フラウは慌てて水を汲みに走る。
平気であるはずがない。呼吸が浅く、息をするのも苦しそうだった。額に脂汗が浮かんでいる。黒の大地で魔力切れを起こした時のフラウを思い出した。
「魔力切れですか?」
僕はささやいた。
「ごめんね。こんなみっともないところを見せて。これだから、追い出されちゃうんだけどね」
弱弱しい笑いだった。先ほどのはヴァイスさんの最大限の光量だったのだ。
これは危ないかもしれない。フラウの時よりも状態が悪いと僕は判断した。
「ちょっと手を貸してくださいね」
幸いにも今僕は腕輪をしていない。
そのまま手をつかんで、フラウの時のように力を注ぎこむことを願った。
一瞬だめかと思った。フラウに魔力を与えたときはすぐにできたのに、ヴァイスさんとは繋がれなかった。このままではだめだ。
動かない機械を無理矢理起動させるときはどうするのだったか。僕は魔石を力に変換する魔道具を思い出した。
いくつかの呪が頭に浮かんで、消える。
違う、つながる呪だ。
針に糸を通すときのように隙間を探して力をねじ込ませる。
徐々に穴を穿つように力が流れ込み始める。
「アークちゃん?」
「じっとしてください。応急処置です」
一度つながると後は楽だった。フラウの時のような濁流にのまれたような感覚はなかったが、たぶん確実に魔力は移譲されている。
「アーク、なにしてるの!」
フラウが僕の後ろで声を上げた。
手にした布ですくった水がばちゃりと音を立てて落ちる。
「なにって、魔力切れをおこしていたからさ、ちょっと補給を」
「アークちゃん、ありがとう!」
いきなりヴァイスさんに抱きしめられた。ろっ骨を締め上げられて、頬ずりをされて、僕は何が起きているのかわからなくなる。
「これは、あたしからの、お・れ・い」
「ちょっと、何してるんですか」
フラウが濡れた布をヴァイスさんの顔に押し付けた。
「なにって、お礼のキス」
「どさくさにまぎれて、変なことをしないでください」
よかった。いつものヴァイスさんが戻ってきた。締め上げられた肋骨が折れていないか確認する。
「いいじゃない。あたしとアークちゃんの仲なのよ。アークちゃんの初めては、あたしのもの」
「はぁ、何を言っているんですか」
フラウが腹を立てていた。
「だって、魔力をもらったのよ。だから、そういうことでしょ」
「どういうことなの?」
僕は怖くなってきた。
「だからぁ。魔力を与えるということは、ねぇ」
フラウが真っ赤になっていた。
「違います。全然違うんです」
「え? どういうこと? フラウ」
僕は色っぽい目をして見つめてくるヴァイスさんと、むきになっているフラウを見比べる。
「違うの。アーク。それは、昔の風習なの。今はすたれているから。普通の応急処置だから。深い意味はないの」
フラウが必死になって抗弁する。
まさか、まさかだけど。
「あら、知らなかったの。まぁ」ヴァイスさんはにんまりと笑う。「まぁ、いいわ。あたしが一番乗りということで」
「だから、違うといっているでしょう」フラウがむきになって繰り返す。
「あら、あらあらあら。ひょっとして、あなたたち、そういう関係だったの。あたしが、一番じゃなかったの? あらあらあら。それは、ちょっと残念。でも、いいのよ、アークちゃん。あたしは二号でも」
めまいがしてきた。気が付かないうちに泥沼にはまってしまったらしい。
「ちょっと、大変よぉ」
館に戻ったときもまだ女?二人の感情に振り回されていた。
むくれているフラウと、躁状態のヴァイスさんと、その狭間でどうしようもない僕。
ヴェル姐さんが慌てて僕を迎えたときには全然大変なことだとは感じていなかった。
「アークちゃん。病院から連絡があったの。すぐに、来てって」
どこか浮ついた気分が吹き飛んだ。