豚の矜持18 ゲーム

葬式はひっそりと執り行われた。

 誰一人声を上げる者がいない静かな葬儀だった。

 主として式を司ったわたしも司祭が帰ってすぐに館に引き返した。

 カークの墓前に残ったのは赤毛の女ただ一人である。

 わたしはその場にいたくなかった。

 また一人、仲間が去って行った。

 彼はゲームの中のようにわたしたちのスパイではなかった。ゲームの中で行った犯罪行為は何一つしていない。にもかかわらずゲームで語られたとおりの死に方だった。

「当然の報いだ」

 ゲームの中でカークの死を報告された攻略対象者はそう言い放つ。

 当然の報い? 自分の彼女をかばうようにして死んだ男に向けられる言葉だろうか?

 シャークの時と同じだ。この世界はゲームと似た状況を作り出してわたしたちを殺そうとしている。

 ダークの心づくしの料理ものどを通らないほどわたしは追い込まれていた。それはトールやマーガレットさんも同じことだった。

「わたし、もう世界の滅亡とか国の行く末とか気にしないことにしたわ」

 きっぱりとマーガレットさんが言う。

「これまではなるべく「華学」のシナリオを壊さないようにしてきたでしょ。わざわざ“村”の周辺で女の子を集めたり、冬の宴に出席してみたりしたけど、事態は好転しなかったわ。ほぼシナリオ通りに物事は進んでいる。この流れはわたしたちでどうすることもできない。わたしはフライスビューネへ行くわ」

 思いも寄らぬ地名を聞いてわたしは戸惑う。

 フライスビューネ…ゲームの中に一度も出てくることのなかった国である。

 後に侵略してくるブランドブルグ帝国以上の大国であるにもかかわらず、シナリオ中にフライスビューネのフの字もでてこない。設定資料集にも確か辺境地帯とか書いてあって地図にすら載せられていない。

 実際は普通に大国で豊かさという点ではブランドブルグ帝国も抜いている。商人達の連合体でしたたかな国だ。帝国とフライスビューネに挟まれて、昔からこの国は苦労しているんだけどね。

「実はわたし、前からフライスビューネの人から求愛を受けていたの。今度のことで腹を決めたわ。わたしはもうこのシナリオの舞台から降りる」

 マーガレットさんはまっすぐにわたしとトールを見た。

「わたしがいなくて、この国が滅びるなら、それはそれ。世界が暗黒に閉ざされるのならそれでもいいわ。どうしてわたしたちがそんなクソシナリオのために犠牲にならないといけないの?」

「マーガレットさん、それは以前にも話し合ったことがあると思う」

 トールが明らかに感情を抑えた声で口を開いた。

「この国を出るという選択肢を何度も俺たちは選ぼうとしてきた。だが、そのたびに邪魔される。俺もあんたも望んで今の状態にいるわけじゃない。豚公爵だってこの状況を変えるだけの時間も状況も与えられていない。この国を出ようと思っても、何らかの事情ででられなくなる、と思う。もし、でられたとしても、それは…」

「その先に訪れる死が確定してから…か。だが、それは君の経験から導き出した答えだ。ひょっとしたら今回は違うかもしれない。今回は抜け出せるかもしれない」

「だが、姐さんもアリサちゃんもフラグに触れもしなかったのに、結局殺された」

「だからあきらめるのか。だからあきらめてそのまま死んでいくつもりなのか?」

「そうじゃない。そうじゃないが、ただ余所の国に行けばいいというのはあまりにも安直だ。現に俺がこの国を出ようとしたときには無理矢理国に戻されるような出来事が起こってでられなかった」

「フライスビューネはただの国じゃない。あのゲームの中に名前すら出てこない国だ。そこならば、この物語の影響力から抜け出せるかもしれないだろ。この舞台の上にいればいるほど、決められたシナリオから抜けさせなくなっていく」

「だが、そうすると、この国が滅びるかもしれない。すくなくともブランドブルグの侵攻はおこるだろう」

「だから、そんなこと俺たちになんの関わり合いがある。関係ないだろう」

「戦争が起こったら、無関係とはいえないだろう。ここにいるトールやその家族、下働きをしている子たち、みんな巻き込まれるんだぞ。おまえのところの娘たちも、豚公爵の一家も、

 みんなだ。もっと冷静に落ち着いて物事を見極めてから動いた方がいいんじゃないか。すべてを投げ出すなんてあんまりだ。君だけ逃げる気か?」

「逃げるだって? 投げたくって投げてるわけじゃない」マーガレットさん、いや、敬士さんは立ち上がった。

 二人は無言でにらみ合う。

「君はいつでもそうだ。物事を見極めてから? もう時間がないんだよ。きみはいつも達観したふりをして投げ出してしまう。行動しないと、何も変わらないだろう。引きこもって解決する物事なんか存在しない」

「俺がいつ引きこもっていた?」

 トールの顔色が変わった。彼は歯を食いしばるようにして言葉を出した。拳が固く握りしめられている。

「俺が何も行動していないとでも…」

 何かを言いかけたが言葉に詰まったトールはそのまま荒々しく足音を立てて部屋を出て行く。

 あとに残ったマーガレットさんは大きく深呼吸する。次にわたしと目を合わせたときはいつものあでやかなマーガレットさんの表情が戻っていた。口調は敬士さんのままだったけれど。

「ごめんね、翼君。俺だってこんな話はしたくなかった。トールが反対するだろうことはわかっていた。でも、もう他に解決法が思いつかないんだ。もし、フライスビューネに行くことで舞台から降りられるのなら、そうしたいと思っている。これは、マーガレットとしての思いが大きい。彼女は、わたしは、恋をしてるんだ。彼と一緒になれるという夢を叶えたいと思っている。本当は…あきらめるつもりだったんだけど…」

 マーガレットさんは悲しげに笑う。

「君は、どうしたいんだ?ウィリアム」

 わたしは、どうしたいのだろう。

 外国に行けば、黒幕という役目から解放されるのだろうか?

 そもそも逃げることなどできるのだろうか?

 この国の貴族としての立場、公爵としての役割をすべてなげうって海外に行くことなどできるのだろうか…

 無理だ。豚公爵としての私が即答した。私には今の立場を捨てることなどできない。それが貴族としての義務であり、公爵家として生まれた者の宿命だから、というのは嘘だけれど。

 エリザベータ…

 わたしの中に浮かんだ言葉はそれだけだ。

 わたしがここから逃げたら、彼女はどうなる?

 彼女は残ってここで悪役令嬢役を続けるだろうか。

 数々の犯罪に手を染め、断罪されるのだろうか。

 私の身代わりとして、女公爵として裁かれて処刑されるのだろうか。

 エリザベータ、わたしの娘。

 わたしは彼女をおいてここを去ることはできない。

「わたしは、ここに残る」わたしはきっぱりと宣言した。

「わたしは、娘をおいてここをでる気はない」

 このままでは彼女は悪役令嬢としての道を突き進むだろう。その先に待っているのは死か、長い暗黒の生活だ。わたしはそれを知っている。

 わたしがいてもいなくても、物事は変わらないかもしれない。だが、止められるとするならばわたしは娘が処刑されることを阻止したい。止められる可能性があるのは、おそらく私だけだ。

 そんな考えに我ながら驚く。

 この気持ちはゲームによって植え付けられたものではない。ウィリアムが、長年、娘に対して抱いてきた感情だった。

 優秀な父がいて、兄たちがいて。家族の情は豚には注がれてこなかった。勉強も、武術も、不得手だった豚にはこの家に存在する理由などなかったのだ。

 不幸な巡り合わせで爵位を継ぐことにはなったが、ウィリアム・ゴールドバーグは所詮形ばかりの当主だった。

 周りのことはすべて家臣達が執り行ってきた。豚が動かなくても領地経営は周り、貴族社会も落伍者に等しかった若い公爵には冷たかった。

 ただ公爵家の血を引くエリザベータだけが豚の生きた証であり、存在理由だ。

 わたしの、光。それが消えるのは、耐えられない。

「そう」

 マーガレットさんは目を落とした。

「ごめんなさいね。本当にごめんなさい」

 トールと二人きりになったときにマーガレットさんの決意は固そうだと伝えた。

 トールは、仕方がないという様子でため息をつく。

「前から、マーガレットさんとはそのことについての意見の相違があったんだ」

 彼は思いの外冷静に説明した。

「だから、そのどちらでもできるように二人で備えはしていた。ただ、今はな。とても国外に逃亡できるような状態ではなくなってしまったんだ」

 それはそうだと思う。ダークには家族がいる。カークやシャークのような街のチンピラに国境を越える許可が出るかはあやしい。そして、わたしだ。公爵という地位にあるものが国を捨てて、土地を捨ててこの国から出られるかというとまず無理だ。わたしには爵位を渡せる近親者はエリザベータ以外にいない。

「マーガレットさんは恋人ができたといっていた」

「ああ、フライスビューネの外交官だな。店に上客として通っていた男だよ。客と女将という関係から一線を越えているとは思っていたんだが」

 彼が戻るということはブランドブルグの侵攻は近いということだな、とトールはつぶやいた。

「それで、どうするつもりなんだ?」

「マーガレットさんを止めるか、ということか? それは無理だろ。あいつが本気で行きたいといったら行かせるしかない。俺たちにはそれを止めることはできないだろ」

「ちがう、わたしたちのことだよ。トール、わたしはここに残る」

 トールは言い切ったわたしに驚いたようだ。豚らしからぬ態度だったからかな?

「わたしは残るよ。エリザベータを残して自分だけ逃げるわけにはいかない。このままいけば、彼女は悪役令嬢になってしまう。そうすれば断罪の後に裁判だ」

「君は、翼君なのかな?それとも豚公爵?」

「どちらのわたしもそう思っている」

 なぜだろう。わたしが豚公爵に飲み込まれてしまったのだろうか?それとも、わたしも、エリザベータのことを思っているのだろうか?確かに彼女はわたしのお気に入りのキャラではあったけれど。

 わからない。

 前はわたしとウィリアムの間には超えられない溝があった。それがいつの間にか消えて、どちらがどちらの思考なのかわからなくなってきている。

「そうか」

 トールはかすかに口角を上げた。

 それを見てなぜかわたしはほっとする。

 これからどうするかを考えなければいけない。

 まずは、マーガレットさんの海外脱出を成功させる方法を。

 それから、彼女が登場するはずだった“村”でのイベントをどうするか。

 次におこる“村”のイベントはブランドブルグに丸め込まれたマーガレットさんが起こした事件だった。その主役が抜けてしまうことになるのだ。

 カークとシャークの二人のケースから考えると、誰かがマーガレットさんの代わりを務めることになる。シャークの場合はトールやわたし、カークの場合は赤毛の彼女だった。仮にわたしたちのうちの誰もその出来事に関わりすらしなかったらどうなる?

 全く関係のない誰かが、その責を負うことになるのか? それとも、場所を替えて、やはり我々のうちの誰かが起こしたことになるのか。

 そんなことを考えながら、今日も日課の畑仕事をする。

 最近すっかりこれが習慣になってしまった。

 土はいい。触っているだけで、癒やされる気がする。庭師の指示で作業をするだけなのだが、無心に作業をしていると悲しみや怒りといった負の感情がどこかに解けていく気がする。

 時々様子を見に来る豚嫁のスパイももうなにもいわない。気違い豚のすることなど誰も気にとめないのだ。

 誰も気にとめないと思っていたのだが…

「公爵様、ウィリアム様!」いつになく家令が焦って現れた。「至急館にお戻りください」

至急お戻りください、といわれてもだなぁ。

 わたしが聞こえないふりをして無視をしていると、なんと耕したばかりの土の上に足跡をつけて、髭家令がこちらにやってくるではないか。

 いままで一度たりとも畑に入ることがなかった男が、である。

「何をしている。せっかく耕したところが駄目になってしまったではないか」

 わたしは心底むっとした。わたしの迫力に押されたのか、家令は足下を見て、それからおびえたように顔を上げた。

「そ、それどころではございません。急いで館にお戻りください」

「なんだ、何か起きたのか?」

 まさか、エリザベータに何かがあったとでもいうのだろうか。それは大変だ。

 わたしは慎重に植えたばかりの苗をふまないように気をつけながら畑をでる。腹で足下が見えないから、なかなかに苦労するのだ。

 焦る家令にせかされて、湯船に入って泥を落とす。別邸の豚嫁のところから召使いまでやってきている。最近一人で風呂に入ることになれてしまったわたしには彼女たちの世話が煩わしい。

「何があったのだ?」わたしは隅で物静かに控えているクラリスに問いかける。

「はい、実はブルーウィング公がお見えになるという知らせが先ほどはいったようです」

 クラリスはうやうやしく答えた。ちらりと見交わした目にはこのことを大層面白がっている不穏な光が宿っている。

「ブルーウィング公? なんのようかな。用ならオクタヴィアに伝えればいいだろう」

 わたしはわざと不機嫌そうに高い声を張り上げた。

「わたしは疲れているんだ。眠らせてもらう」

「そ、そんな、主様」家令はおろおろとわたしにすがる。

「いったい、その、ぶ…なんとかはなんのようで私に会いたいのだろう」

わたしはぶつぶつと小声でつぶやく。家令がぞっとした顔をしているのが楽しい。

「わたしは、わたしは…なんのはなしをしていたかな?」わざと遠い目をして尋ねる。

「こ、公爵様」

 おまえたちが変な薬をつかったから豚公爵は狂ってしまったんだよ。今更取り繕おうとしても無駄というものだろう。

 しかし、ブルーウィング公…いったい何の用だろう。冬の宴でゲームをしたときに会いに来ると言っていたが、ただの社交辞令だと思っていた。

 とりあえず、クラリスにゲームをする部屋の用意を頼んだ。

 昔わたしが寝室にしていた部屋は比較的きれいにしてある。空気も入れ換えて、薬のにおいも抜いたからな。

 彼女に任せておけば最低限のしつらえはできるだろう。あとは、子供たちが自室で静かにしていてくれれば、それでいい。ただそれが一番の難問か。

 別邸から来た家令? なにをしているんだろうな? 人の家の中を勝手にいじらないでほしいんだが。

 公爵が訪れたのは午後遅くなってからだった。別邸の豚嫁が送りつけてきた男性使用人が恭しく馬車の扉を開ける。

 わたしも正装してお出迎えをする。豚邸でこんなにきちんとした格好をするのはいつ以来だろうか? この格好ならブルーウィング公も文句をつけるまい。

 腹が出ているって?そればかりはどうしようもなかったよ。

 ブルーウィング公は馬車から降りると厳しい目で辺りを見回した。

 に、庭はきれいになっているはずだ。子供たちが掘り起こした穴は、目に付くところはすべて埋めさせたはず…

 忘れていたはずの豚公爵ウィリアムとしてのチェックが行われる。平民のわたしが普段気にしないようなところをウィリアムは気にしている。いわゆる貴族の面子というものだろうか。

 庭木はきれいに剪定した。この前わたし自身がやったのだから問題ない。花は地味目なものが飾ってある。調度品は…ずいぶん減っているな。

 いやいや、派手な壺の数とか、彫刻の数とか、気にしなくてもいいから…

「ブルーウィング公、よくいらっしゃいました」わたしは精一杯の速さで公に近寄る。

「どうぞ、こちらへ」

 あまり評価はしたくないのだが、豚嫁の召使いはそれなりに有能だった。あの限られた時間の中で持ち去っていた調度品を見事に回復させていた。

 もちろん、人目に付くところだけだけどね。

 いつもよだれを垂らしながら赤ん坊が這いずり回っている床には豪華そうな絨毯がひかれ、子供たちがボール投げをして穴の空いた窓にはそれをうまく隠すように大きな花瓶が置かれていた。

「懐かしいですな」ブルーウィング公は目を細めて豚邸の中を歩く。「お父上の時代にはよくこちらに伺ったものです」

 豚父は、とても有能だった。わたしの中に苦い思いがよみがえる。あまりに偉大な父親。出来損ないだったわたしは父の影すら踏めない。

 この館の中で交わされた策謀の数々。息を潜めるようにしてカーテンの陰から大人たちがわたしの理解の及ばないことを話しているのを盗み聞いていた。あの大人たちの中に若き日のブルーウィング公もいたのだろう。

 彼とわたしが対等な立場としてここで話しているのはとても不思議な気がする。

 今回は私的な訪問ということで、部屋の中にいたのはわたしとブルーウィング公、彼の腹心の部下なのであろう護衛とクラリスだけだった。

 豚嫁の家令? そんな人物はどこかにいたかな? トールがどこかに連れて行くのを目の端で見たような気がするが。

 ゲームはやはりわたし優位に進められる。この前の勝負以来、何回かトールたち相手に練習をしておいてよかったな。今回ブルーウィング公は最初から手加減なしだった。この前のように遠い記憶に任せての勝負だとあっさり負けていただろう。

「それはそうと、公はわたしの息子に手紙を送っておられましたな」

 駒を勧めながら、ブルーウィング公はさりげなく切り出す。

「わたしの息子に“友愛”を求めておられるのですかな」

「“友愛”ですか?それは、まぁ」

 確かに友好の手紙を送ったつもりだった。最後のほうはほとんどストーカーの脅迫に近い狂気があったけれど。

 わたしの反応に合点がいかなかったのか、公はかすかに眉をひそめた。

「“友愛”と“平等”と“自由”でしたか?」

 “自由”、“平等”、“博愛”? フランス革命かよ?なんで、ここでフランス革命? わたしは戸惑う。

「おや、公はご存じない?」

 正直なんの話をしているのかさっぱりわからない。わたしは混乱のあまりあやしい手を指してしまう。

「あー、申し訳ない。わたしは、その、何のことだか」

 公はしばらく盤の上で手をさまよわせていたが、駒を動かす。うまい手だ。わたしのミスを突いてきている。

「てっきり、あなたもそういう言葉を好まれるのだと思っていました。今のあなたの周りには奇妙な者たちが集っているようですな。お父上の時代ならとうていこの館に足を踏み入れることができなかった者たちが」隠しきれない軽蔑がかすかに言葉の上を漂う。「ですから、あなたもそういう流行にのっておられるのかとおもっていました。だが、先日の儀式にあなたは参加された」

「奇妙ですか?」

「ええ、とても」

 じゆう、びょうどう、ゆうあいか。わたしは次の手をまよう。

「ブルーウィング公、わたしは長い間“療養生活”をしていました。ですから、この国については暗いのです。わたしは、ただ」

 話を聞いてもらいたかっただけだ。

 わたしは手を止めて、手を組んだ。久々に火が入った暖炉の灯りを見つめる。なんと話そう? この海千山千の男に生半可な手は通じない。正直に話す以外思いつかないのだが、全部をありのまま打ち明けると狂人の繰り言とおもわれそうだ。

「こういう話をすると、奇妙と思われるかもしれない。わたしは療養中に夢を見たのです。何度も繰り返し、繰り返し」

言葉をゆっくりと紡ぐ。

「どの夢も、結末は同じでした。ゴールドバーグ家の滅亡と、わたしと娘の死。細かいところはずいぶん違いましたが、終わり方はいつも変わらない。…その中にはいつも同じ人が現れました……それが今この館にいる者たちです。そして、あなたのご子息も」

 ブルーウィング公の表情はほとんど変わらなかった。肯定でもなく、否定でもなく。ただ、後ろの護衛の男がかすかに身じろぎをした。

「わたしは…わたしたちは、結末を変えたい。あなたのいう“友愛”が何を意味するのか、わたしは知らない。だが、おそらくあなたのご子息はこの夢を解くのに鍵になるのではないかと。そう思ったのです。だから、手紙を送った」

 わたしは手を進める。ブルーウィング公は片手をあごに当てて長い間盤を見つめていた。

 それからふと緊張を緩めて、笑顔を見せた。

「なかなか興味深い動きですな。どう動くか迷います。この続きはまた次の機会に」

 彼はなめらかに立ち上がる。わたしもよっこらしょと腰を上げる。

「今日はとても楽しかったですよ」公は廊下を歩きながら軽口をたたいた。

「息子の話が聞けてよかった。今、あれは、反抗期とでもいうのですかな? 口も聞いてくれません」

 その夜、そのことをトールたちに話してみた。

 マーガレットさんも同席していた。彼女がトールと話すのは久しぶりのはずだが、この前けんかをしたことなどみじんも感じさせない。いつも通りのマーガレットさんだ。

「自由、平等、友愛ですか? ブルーウィング公が気にしていたのは友愛会でしょうか?」

 意外にもこのことをよく知っていたのはダークだった。

「華学で流行っている団体ですよ。民主主義もどきを唱えているあやしい人たちですね」

「あやしい、のか?」

「ええ。少なくとも厨房の人たちはそういう目で見ていました。平民と貴族を平等にするとか、地主や領主から土地を取り戻そうとか、そんなことを食堂で息巻いている連中でしたよ」

「それって、自由、平等、友愛 なのかな?」なんだかちょっと違う気がする。

「さあ? よくわかりませんけれど、過激なクラブ活動みたいなのりでしたね」

「そういえば、そんな連中はいるな」トールがうなずく。

「最近口入れ屋の前で金持ちや貴族は腐っているとかなんとか演説している奴が。そんな奴は見つけ次第排除するようにいってあるんだが、流行ってるのか?」

「流行っているというのか、なんというのか。結構共感を得ているようでした」

 王立学園にも平民が増えていますから。そう、ダークは付け加えた。

「それって、クリアテスの思想じゃない?あそこは20年くらい前にブランドブルグ帝国から独立したのよ。かなり過激なことをいう新興国。こことは国境でもめてないからあまり重視されていない国だけど、フライスビューネや帝国は神経をとがらせてるわ。」マーガレットさん、さすが高級のつく娼館を経営しているだけあって外国のこともよく知っていた。

「うちの客の中にもたまにいるのよね。クリアテスの信奉者がね。うちの客層に会わないからあまり目立ってはいないけれど、面倒な人たちよ。なにしろ公的にはわたしたちのような存在を認めていない人たちなのよね。そのくせ裏では…そうか、学生の中に浸透しているのね」

「自由、平等、博愛といったら、わたしたちの間ではフランス革命だよね」

「こちらでは宗教が絡んでいてちょっと違うみたいだけどな。ただ転生者にはなじみがある思想だと思う。向こうの基準で行くと、こっちの階級差はひどいからな。そういう考えに飛びつく奴がいてもおかしくはないな」

「学園は平民を受け入れるというのは建前。俺たちみたいな本当の庶民はほとんどいませんからね」

 金持ちばかりですよ、と内情を知るダークの口調は厳しい。

「ここじゃ、それでも配慮してる方だろ。俺たちだって豚邸だから好きにやらせてもらってるが、本来なら俺のような平民がお偉い公爵様とこうやって話すことはあり得ないことだから」

 そうだろうな。ウィリアムの感覚からするとトールたちを豚邸に入れるということ自体考えられないことだ。ウィリアムが正気のままで体の主導権をとっていたら彼らと出会ってさえいなかったと思う。

「だけど、転生者からみたらここの状況はかなりショックを受けるよ。俺もそうだけど、姐さんやアリサちゃ…こちらに来たばかりの転生者もかなりあれてましたよね」ダークが言い直した。

「学園にいる転生者たちも同じように感じていると思う」わたしもそうだったから。「だとしたら、ブルーウィング公の息子がその、友愛会とやらにはまるのも無理はないか。なじみのある考え方だからね。まさかとは思うけど、学園にいる転生者はそちらにかぶれているということは、あるだろうか」

「ありうるな」トールはうなずいた。「あそこはこの国で唯一平民も通える高等学問を教える場所だからな。主人公も平民出という設定だっただろ」

 確かにそうだった。生まれは貴族だが、平民として育てられたという設定だ。

 わたしがここの現実と学園のあり方に疑問を抱いていたのがその点だった。この国の現状からいって、貧しい平民が学園に通うという物語は無理がありすぎるのだ。

 ウィリアムの感覚では、平民と肩を並べて勉強するなどということは馬鹿らしくて考えてみたこともないことだった。現に彼が曲がりなりにも学園に籍を置いていたころは、貴族専用の学校で、平民はいても金持ちかよほど優秀な人材か、に限られていた。

 だが、今は平民出の生徒もたくさん学んでいるらしい。

「かなり数だけはいますよ。ただ、中身はどうかな。平民上りは成績が悪いと陰で言われてましたからね。俺たちと同じ頭のレベルでここに通うなんて、みたいなことも。それに生活空間は全く別物ですから。寮も食堂も全部別棟。授業も成績順のクラスということで、まぁ、別になりますよね」

 ダークは校内に別の学校があるようなものだといった。

「今の学校の中がどうなっているのか知る必要がありそうですね。昔の知り合いに中の雰囲気がどうなっているのか聞いてみます。厨房にまだ知り合いがいますから」

「わたしも、つてをたどってその“友愛会”とかいう組織を調べてみるわ」と、マーガレット。

 だけど。

 あなたはいなくなってしまうじゃないですか。

 無言の問いかけにマーガレットは弱々しい笑いを浮かべた。

「心配しないで。わたしがいなくなっても、わたしの後継者がそのあたりのことをきちんとこなしてくれるはずよ。彼女たちはとても有能な娘よ」

「私も微力ながらお手伝いできると思います」

 側で控えていたクラリスも申し出た。

「兄の知り合いに“友愛会”という組織について探ってもらいましょう」

 いつのまにか円卓会議の仲間に加わっているクラリス。いいのだろうか?

 兄に頼むというのも気になる。何しろ彼女の兄は凄腕の暗殺者。それもいずれ豚を滅多切りにする可能性もある男なのだ。

 わたしが物思いにふけっている間に、トールとマーガレットさんはこれからの打ち合わせをしている。

「マーガレットさん、ちょっと頼みたいことがあるんだが」

 マーガレットの国外脱出にあれほど憤っていたのに。一郎君は今日の夕食のメニューでも決めているかのように淡々と情報を交わし、物事を取り決めている。

 人手が足らない。情報も足らない。

 所詮わたしたちにできることは限られているのだ。

 わたしは窓の外を見た。今にも雪が落ちてきそうな気配がする。

 外では新しい年を祝う祝砲が上がっている。今晩は古い年を終えて、新しい年を迎える祭りが一晩中行われるはずだ。

 わたしは密かに新年のための聖句を唱える。

 例のわけのわからない音の羅列のような言葉が心の中で反復される。反復されるにつれて、宮殿の奥まったところで光っていた水盤の光のようなものが足下にも広がっていくような感覚を感じる。

「あ。雪が降り始めました」

 クラリスが窓の近くによって、暗い空を見上げている。空からたくさんの白い物が舞い落ちてくる。

 不思議だ。音の消えた世界に、白い雪が落ちていくのが見える。しばらく見ていると、雪は海を漂うクラゲのように光りながら落ち始めた。

 精霊の雪だ。

 精霊が冬に涙を流すと降るといわれている光る雪だった。

「精霊の雪が降っています」

 クラリスがうっとりと淡い光を発しながら落ちていく雪を見つめていた。

 本当に久しぶりだ。こんな静かな新年を迎えるのは。

「これから来る年がよい年となりますよう」

 彼女の静かなつぶやきが薪のはぜる音だけが響く部屋の中に柔らかに広がった。

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