豚の矜持22 愛娘

エリザベータののる馬車はまっすぐ“村”に向かっている。

 いったい誰が彼女をここに送ったのか?こんな危険な場所へ。

 もうすぐトールたちが畑や工場を爆破するはずだ。派手に壊すといっていた。それこそ、いっぺんの草木も残らないように。

 今“村”に近づけば巻き込まれてしまう。

 エリザベータののった馬車にはなかなか追いつけなかった。手が届きそうで届かない。

 “村”にはいった彼女の馬車はまっすぐ工場のある村はずれに向かう。わたしたちも彼女について工場の建つ薄暗い区画へ馬車を走らせた。

 彼女の馬車は工場の裏口とおぼしきところに止まった。出迎えの用心棒らしい男たちが出迎えに現れる。

「エリザベータ!」わたしは馬車に乗ったまま叫んだ。

 灰色のフードのついた外套を着た彼女はちょうど馬車から降りるところだった。

 夕暮れ時の淡い光の中でも彼女のきらめく青い瞳がわたしを見て見開かれたのがみえた。

「お父様?」

 わたしは腹が入り口につっかえるのも気にせず、馬車から転げ落りた。落ちたというのが正確かもしれない。

 それから、最大限の速さでよたよたと彼女のほうに走り寄る。

「お父様、どうしてこんなところに?」彼女の美しい鈴が鳴るような声がわたしの名前を不思議そうに呼ぶ。

「エリザベータ。おまえはこんなところに来てはいけない。どうしておまえがこんなところに…」

「お父様こそどうしてここにおられるのです?」

 彼女の顔から驚きが消え、いつもの表情のない冴え冴えした表情が戻っていた。

「ここは何人たりとも立ち入ることを許されない場所のはず。それなのに、なぜ…」

「エリザベータ、話を聞いてくれ。わたしは…」

「姫様」馬車から灰色のフードをきた男たちが降りてきた。「時間がありません。お早く」

「おまえたち、エリザベータにいったい何をさせよ…」うというのかと聞こうとしたときだった。

 突然、耳をつんざくような轟音が後ろの建物から上がった。同時に火柱が建物の方に向いているわたしには見えた。

 エリザベータは驚いて振り返ろうとした。

 わたしは彼女との距離を詰めると、彼女を抱きかかえるようにして建物に背を向ける。

 ふわりと彼女の髪のにおいがする。エリザベータの体は小さいときと同じく柔らかかった。

 次の瞬間わたしですら吹き飛ばされるくらいの爆風が背中を焼いた。

 守らなければ。とっさに思ったことはそれだけだった。

 地面にたたきつけられて、その衝撃で大切なものが壊れてしまうことを恐れた。

 お父様

 銀色のわたしの大切な宝物。

 何かが背中にふってくる。わたしは体を丸めて落下物から身を守る。

 細いエリザベータの体はわたしの肉で完全に隠れている。

 彼女は安全だ。

 このときだけわたしは本当に豚でよかったと思った。

「ウィリアム様、ウィリアム様」

 クラリスが半分倒れた馬車の陰から走り寄ってきた。

「大丈夫ですか?おけがはありませんか?」

「君こそ、怪我はないか?」

 背後では建物が真っ赤な炎を吹き上げていた。熱が、肌を焼く。

「急いでここから離れるぞ」

 わたしは体の下のエリザベータに手を貸して、立ち上がらせる。

 エリザベータはためらってからわたしの手を取った。

「馬車は…無理だな。とにかくここを離れよう」

 燃えているのは建物だけではなかった。畑も、倉庫も、すべてが燃えている。

 エリザベータが、炎を見つめて、ふらふらと建物のほうに近づこうとした。

「何をしているんだ、エリ。ここにいたら危ない」

 わたしは彼女の手を引いて、炎から遠ざける。

「でも、でも、資料が、中にまだ、製造法が…」

「そんなもの、もう燃えているはずだ。行かないと危ない」

「さぁ、エリザベータ様参りましょう」クラリスがエリザベータの肩を抱くようにして火のない方に誘導する。

「おい、ここで何をしているんだ」突然トールが飛び出してきた。

「ウィル、なんでおまえがこんなところに、あれ、彼女は?」

「エリザベータだ。あいつらが彼女を代役にした」

「…まじかよ」

 トールが手を振るとわたしたちの背後に立ち上がっていた炎が消える。

「いこう。ずらかるぞ」

 わたしたちは止めてある荷馬車の荷台に這い上がった。わたしの場合は押し上げられた、というのが正確なんだけどね。

 わたしの胴体がなんとか中に入るのを見た御者はすぐに馬車を走らせる。

 中にいた人たちが力を合わせて引っ張り上げてくれなかったら、転げ落ちていたかもしれない。

 馬車の中で皆無言だった。黙って、工場や倉庫、“村”が赤い炎に包まれるのを見る。

 “村”の境界付近にさしかかったときのことだった。

 “村”がゆらいだ。炎に包まれて燃える“村”の輪郭がぐにゃりと変形した。

 ふいに音が消える。

 燃える炎の音、飛び散る火花、それが無声映画を見ているように目の前でちらつく。

 ちらついて、溶けていく蝋のように少しずつ炎に飲まれ、

 消えた。

 あとに響くのは馬車のきしむ音、車輪の回る音、馬のひずめが堅い道をふむ音だけだった。

 日の落ちた暗い山道が前も後ろもどこまでも続いているように見えた。

「“村”の役割が終わったんだな」トールの低い声が暗闇に解けていった。

 トールたちが集合場所にしていたのは山奥にある小さな村だった。

 馬車が村に入ると先に脱出したらしい庭師とその手下らしき男たちがほっとしたように駆け寄ってきた。

 フードを下ろしたままのエリザベータが馬車から降りると男たちが息をのんだ。

 まさに掃き溜めに鶴。

 おい、そこの山男。わたしのエリザベータをそんなにまじまじと見ないでくれ。それで彼女の美しさが欠けるわけではないのだが、そのねとつく視線で陰ってしまう。

「え、エリザベータ、やけどはしなかったかな?怖い思いをしただろう」

 わたしが走り寄って小さいときのように肩を抱こうとすると、彼女はわたしの手を振り払った。

「エリザベータ様はわたしがお世話いたします」クラリスが慌てて割って入るとわたしに目配せをして、それから向きを変えた。

 彼女たちが歩いて行くと、男たちはおののいたように道を空ける。

「あの年の女の子は微妙なんだよ」トールが慰めるようにわたしの背をたたいた。

「ウィリアム様、お話があります」

 庭師がいつまでも後ろ姿を見ているわたしの後ろで咳払いをした。

 残念だ。ずっと彼女のことを見ていたいのに。

 わたしとトール、庭の師匠は、周りに薪が積み上げてある場所で火を囲んで額を寄せ合った。

「俺たちのほうはうまくやったよ」トールはうまく草も工場も破壊できたことを報告した。

「すべてが燃やせたと思う。これのぞいてはね」

 トールがふところから紙の束を出して見せた。

「薬の製法だ。ポーション、ハイポーション、復活の薬。メガポーションに麻痺回復剤」

 トールはいいながら、一枚ずつ紙を目の前のたき火にくべていく。

 最後まで火に投げ込むと、彼はじっとそれが燃え尽きるのを見つめた。

「“村”にも、工場にも人一人いなかった。はじめから誰もいなかったみたいだ。映画のセット、といえばわかるかな?」

「前にわたしたちが滞在していたあの宿もか?」

「ああ、つかった形跡の全くない埃一つない建物が建っていただけだった。不気味だったよ」

「それで、主人公たちは?」

「現れなかった。足止め工作がきいたのか、それとも、別の理由なのか。おまえがエリザベータを引き留めなければ、現れていたのかもしれないな」

 不吉なことをトールは口にした。

「わたしは商人Aにあったよ」わたしはそこで交わした会話をトールに伝えた。

「あいつが、エリザベータを代役といったのか」トールは思い切りいやそうな顔をした。「チュートリアルだって馬鹿にしている」

「あの、彼が聞いていてもいいのか?」

 庭師が黙って横にいることに耐えられなくなったわたしはトールに尋ねる。

「変なことを話しているって、わたしたちは狂人扱いされるんじゃないだろうな」

「彼には話した」トールが庭師にうなずく。「ウィル、彼はね、司祭なんだ」

「司祭? 神殿にいるあれか?」

「彼はおまえの家付きの司祭なんだよ」

「そんな人、いたかな?」

 わたしはウィリアムの記憶をひっくり返してみた。庭師はずっと庭師だった。小さい頃から庭にいて、庭園の整備をしていた。畑を荒らしてこっぴどく怒られたこともある。祈りを捧げているところは、見たことがないな。

「ゴールドバーグ家は、代々地の力を司ってきた一族なんだ。それを裏からずっと支えていたのがじいさんたち、そうだな」

 庭師はうなずいた。

「つまり、じいさんたちは根っからのここの住人なんだ。だから、異分子にきがつきやすい。我々のような存在に」

「でも、でも、それならなぜもっと早く打ち明けてくれなかったんだ」

「俺たちのことには気がついてはいたらしい。だけど、なんというのかな、ゲームの干渉力とでもいう力が強すぎて、介入できない、というか介入しようとすると邪魔されるというか」

 わたしたちが学園の生徒たちとどうやっても接触できないと同じことか。

「表の一族の異変に対処することはできなかった。我々はうてる限りの手は打ってきた。だがオクタヴィア様もエリザベータ様も皆あちらの力に絡め取られてしまった。我らと同じ使命を持っていたはずの神殿すらいつの間にかいいように操られていた」

 だから、あなたが祈りを捧げるところを見て驚いたのだ、と。

「あちら側に呑まれてしまったあなたがあのような行動に出るとは」

 祈りというのはひょっとしてあの古きものの召喚呪文みたいなあれだろうか。わたしは決まりが悪くなってもじもじと尻を動かした。あれ、が祈りだとか。

 ごめんね。師匠。そんなにたいそうな意図を持って村を回ったわけじゃない。暇だったから、時間つぶしにうろうろしていたわけで。

「今回も我々の計画に手を貸していただいた」庭師はトールに頭を下げる。

「なぜ、むこうのものが我らに助力するのかはわからないが、感謝する」

「じいさん、それは違うぜ」トールは手を振った。

「今回俺たちとあんたたちが協力できたのは、“村”の消失がシナリオ通りだからだ。助力したわけじゃない。あんたたちのほうが助力させられたんだよ」

 庭師は目を細めた。

「元々のシナリオでは俺たちの仲間が“村”を燃やす予定だった。だけど、そいつが舞台を降りようとしたから、代わりに俺たちが代役に仕立てられたというわけ。村を燃やす黒幕はここにいるウィルと俺、という大本のシナリオは変わらない」

 黒幕が実行役に昇格したというところかな、とトールは肩をすくめた。

「似たようなことを、さっきあったルーシー・マーチャントもいっていたよ」

 わたしは薪をたき火にくべた。薪に火がついてゆっくりと炎が上がるのをじっと観察する。

 “村”の消滅はもちろんわたしたちの罪とされるだろう。

 商人Aはなんといっていたか、わたしが売った薬の存在がブランドブルグ帝国の侵攻を招くといっていた。だが、今、薬の製法は処分した。

「なぁ、他にこの薬の製法を知っているものはいないかな?」

「おりません。というよりも、完成形は誰も持っていないというほうが正しいでしょうか?」

 あの薬は“村”でしか生産されていなかったという。

「商人Aがいっていたんだよ。わたしが帝国に薬の製法を売るって、そして帝国の侵攻を許し、売国奴として処刑される」

「あそこにあった薬の製法はすべて始末した。だから、製法があるとすればエリザベータを送り込んだと思われる豚嫁のところかな?」

「「豚嫁と」よぶな」呼ばないでください」

 庭師とわたしの言葉がハモった。

「仮にも公家の正妃、そのような呼び方はふさわしくありません」

「明日、帰り道にエリザベータに聞いてみよう」わたしは提案した。

「おまえが、聞くのか?」

「そうだよ、何か悪いか?」

「いや、いやねぇ。おまえが聞いても…うん、試してみたら?」

 そういってトールは庭師と別邸に潜入する方法について話し合い始めた。

 なんだ、その言い方は。わたしは腹を立てようとした。

 いや、わかっている。エリザベータはわたしを嫌っている。

 いつからだろう、あの子がわたしの前で笑わなくなったのは。

 最後に笑顔を見たのはいつだ?

 かすむ記憶の向こうでどうしてもそのときが思い出せなかった。

 次の日、わたしの前に現れたエリザベータはいつもの氷のような冷たい表情を崩さなかった。まさに氷の姫、冷酷で無慈悲な、しかしそれでいて人を引きつけるはかなさを併せ持った女だ。

 わたしとエリザベータは同じ馬車に乗り込んだ。

 沈黙の長い時間が流れた。

 冷え冷えとした馬車の中でいつしかわたしは汗をかいていた。

 いわなければならないことがある。問わないといけないことがある。何度か口を開いたがどうしても言葉が出てこなかった。

「あー」咳払いをして言葉が出てこないのをごまかす。

「き、昨日はよく眠れたかな」

 ちゃんと聞こえるような音量で話したはずである。だが、エリザベータは聞こえたそぶりすら見せなかった。彼女の目は窓の外の遠い向こうを見据えたままだ。

「さ、寒かっただろう。え、その」わたしは勇気を出して斜め前に座る彼女の膝に手を置いた。「か、風邪を引いたら困るな、と、あ」

 彼女は足を組むことでわたしの手をはらった。

「え、エリザベータ、聞いてくれ。だ、大事な話があるんだ」

「なんの話ですの? 父上?」

 エリザベータは物憂げにこちらをみた。

 わたしの表情を感情のない目で探るように見つめたあと、ああと小さく笑った。

「わかりましたわ。こういうことですわね」

 彼女は笑みを浮かべたまま、片手でスカートをまくり上げた。白い足となめらかな肌が外気にさらされる。

 わたしは驚いて、エリザベータを見返した。

「今回はわたしを助けていただいた形になりました。ありがとうございます」

エリザベータは感謝の念など感じられない平坦さで礼を言った。

「わたしは借りを作るのが嫌いなのです。お父様。きちんと礼はいたしますわ」

「え、エリ?」

 計算され尽くした娼婦の笑いだ。それに気がついたとき、わたしは震えた。

 娘がわたしを誘惑している? 何度もスチルの中で見た男を誘惑するエリザベータの毒々しい笑みだった。

 わたしの頭に一気に血が上った。

「ち、ちがう。そういうことではない。わたしは、ただ、おまえと話がしたいだけだ」

「わかっています。殿方は皆そういいますもの。お話ししましょう?」

 エリザベータはわたしの膝にそっと手を置いた。

「たっぷりと、時間をかけて」

 ふわりと花の香りが漂った。甘い蜜を含んだ花の香りだ。

 ゲームの中では豚とエリザベータの絡むシーンがあった。それを思い出した。

 このゲームの中で一二を争う、鬼畜な豚のスチルだ。ウィリアムが拒絶するので思い浮かべることを無意識のうちに禁じていたひどい場面だった。

 わたしは嫌悪感で吐き気がしてきた。

「エリザベータ、違うんだ。わたしは、そんなことをしたいわけじゃない」

 わたしは震える手で彼女を向かいの席に押し返した。

「あら、でも、体は正直ですわ。わたしに任せていただければ、楽しい時間を過ごせると思いますわ、“お父様”」

 エリザベータの年に似合わない艶めいた声がただの呼び名に別の意味を与える。わたしは思わずゴクリとつばを呑んだ。

「え、エリ。わたしとおまえは血がつながっているんだぞ」

 わたしは頭を冷静に保とうと努力しながら馬車の隅に体を押しつけた。

 エリザベータは一瞬体を硬くした。

 それから、声を上げて笑う。

「そんなことを気にされていたのですか?大丈夫ですわ。この馬車の中は二人だけ。誰も見ているものなどいません。いたとしても、口外しませんわ。

 それとも、本当に、わたしとの血のつながりがあるからという理由で。まさか、そんな理由でわたしの行動を妨げようとされたのかしら」

「当たり前だろう。おまえはわたしの娘だ。わたしのただ一人の血を引く娘だ。子供が火に飛び込もうとしているときに止めない親はどこにいるんだ?」

「本当に、本当にそんな理由で、こんなことを? 豚と言われたあなたが、自分の身を顧みずにあそこまでいったというのですか? 今まで何も見ず、何もしてこなかったあなたが…」

 エリザベータの笑みが大きくなった。喜色を含んだ声がだんだん高くなっていく。

「まさか、まさかと思っていたけれど、本当にそんな理由で?」

 笑い声が響いた。びっくりするほど明るい声だった。

 一瞬小さい頃のエリザベータが戻ってきたと錯覚した。明るく朗らかに笑う銀色の娘が。

「でもそんなことで心を煩わされることなどなかったのですよ。

 だって、わたしとあなたは血がつながっていませんもの」

 わたしの顔を一瞬真顔で見つめたエリザベータはまたはじけるように笑い始めた。

 本当に、面白い冗談を聞いたかのように。

「本当に、本当に、ご存じなかったのですか?

 みんな、みんな知っていたのに。

 今の今まで信じてらしたのですか? わたしがあなたの娘だと」

 エリザベータは笑いすぎてにじみ出た涙をぬぐった。

「そんなこと、あるはずがないじゃないですか」

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