第3話 期待

いつものことだが眠りは浅く、目を覚ましてもまだ夢を見ているような感覚だった。

 まだ、向こうの“僕”が必死で暗記していたカガクホウテイシキが目の裏にちらついている。

 試験だからといって夜遅くまで勉強するのは効率が悪いと思う。 そのおかげで、こちらはいつもにまして寝不足だ。

 起きて、顔を洗って、朝の訓練に参加する。

 事務方である僕は、本来はこの訓練課程を免除されるらしい。でもここに来た時から参加しないという選択肢はなかった。

 この砦にいる者たちはみな等級光のレベルが低い者たちだ。体を鍛えておかなければ、いざという時に逃げることもできない。

 筋肉、最高。腕力が強いものがこの砦では勝つ。

 ここは夢の中の“僕”の世界と同じく、腕っぷしが強いものが生き残る世界だった。

 正直この訓練内容で、“黒翼”の連中がここに来たら対抗できるかは疑問だ。彼らはどうやってか光術を使わずにレベルの高い人たちと同じような能力を発揮する、らしい。彼らと戦えば、僕たちはまず勝てない。

 訓練と筋肉でどこまで戦えるものか、みんな疑問に思っていることだろう。唯一、できることといえば走って逃げることくらいなのだ。

「アーク、おまえのところ、女が来るんだってな」

 訓練の間にヘルドがささやいてきた。

「どこで聞いたんだ?」

「どこでって、もう、その話題で持ちきりだぜ」

 ヘルドは上士が通り過ぎるのを待ってから、へへっと笑って見せた。

「なぁ、いい女だったら、俺にもやらせろよ。声をかけてくれるよな」

 ヘルドは僕と同じころにこの砦に配属された少年兵だった。薄い茶色の髪と青い目をした少年で、一見光量は高いように見える。ただ等級は僕よりもちょっと高いくらいだった。本人は、あと少しだけ数値が高ければもっといいところに配属されたのに、といつもこぼしている。

「ものすごい、じゃじゃ馬という話だけどな」

 僕はささやき返した。

「それよりも、おまえ、リリ姐さんにいれあげてたんじゃないのかよ。いいのか。浮気して」

「いいって、姐さんは別口だよ。姐さんだって、ちょっと他を味見したくらいで文句を言ったりはしないだろう?」

 鋭い視線を背中に感じて、僕たちは一生懸命運動しているふりをした。

 今日の砦はどこか浮かれていた。

 僕が知る限りこの砦に女性兵士が赴任したことはない。

 第一砦でも数が少ない女性兵士だ。期待するなというほうが間違っている。

 そんな男たちを、裏で世話をしている洗濯女たちがさげすんだような目で見ていた。浮気性の男たちの様子は彼女たちも気にしている様子だ。

 食事が終わって、日々の日課が始まる前に僕はまた隊長に呼ばれた。

「おまえ、昨日話したことは理解してるんだろうな」

 念を押された。

「はい、隊長」

「面倒ごとは起こすな、起こさせるな。わかっているんだろうな」

「もちろんであります」

「新入りを一人前の兵隊にするのがお前の仕事だ。ここでの、生活をたたき込んでやれ。いいな」

「了解しました」

 僕の決まりきった答えに隊長は、渋い顔をして手にした光版の表面を指でたたいた。命令書だろうか? いったい何が書いてあるのだろうか? 僕は好奇心が抑えきれずに、隊長の手元を覗き込もうとする。

「アーク、やめろ。余計なことをするな」

 隊長は僕をにらんだ。

「失礼しました」

 僕は慌てて直立不動の姿勢に戻る。隊長はそんな僕を見てため息をついた。

「アーク、やっていいことと悪いことがある。わかっているだろう。お前は、頭のいいやつだ。少々等級は低いが、俺はお前を買っているんだ。だから、その好奇心を抑えることを学べ。さもないと、等級監督官に目を付けられるぞ」

 いやな単語を聞いた。隊長のしかめた顔が僕にも伝染する。

「気を付けます」

「そろそろ、到着の時間だ。ライクと一緒に出迎えろ」

「出迎え、ですか? 新兵を?」

 思わず聞き返した僕を隊長はにらむ。

「いいから、行って来い。いいな。おまえが、面倒を見るんだぞ」

 そして、僕が、責任をとることになるのだ。

 僕は面白そうな顔をしているライクと一緒に新兵を迎えに行く。僕たちを追跡するかのように追ってくる無数の目を無視して。

 僕たちの砦は森と沼や川に囲まれた高台に建っていた。周りには食料を自給するためのせまい畑が広がり、ちょっとした小屋が並んでいる。いくつもの小道は森の中に消えており、レベルの低い僕たちはいつもその道を通って巡回に行ったり、町に行ったりしていた。

 昔はこの砦は大きな町の一部だったらしい。巡回中に明らかに人の手が入った後や露骨な廃墟、時々落ちている鉄くずやガラスの破片がかなり遠くまで見受けられる。僕らの主な任務は遺跡からお宝探しをすることなのだ。

 僕はここに巨大な町があったと確信していた。そう、夢の中で見るような、大きな町だ。流された黒い民が住んでいたのだろうか? それとも、もっと別の人たちが? 僕は一人で頭の中で大きな町を想像して楽しんでいた。そう、もう一人の“僕”が時々遊んでいる“げえむ”の中の町をつくるように。

 どこまでも家が続いて、たくさんの高い建物が建っている。たくさんの人たちが自由に行き来し、生活している。夢の中だけで経験できる”僕”の世界。僕は、”僕”の生活をのぞくのが好きだった。向こうの”僕”は僕の生活を見ることができるのだろうか。ふと、そんなことを想う。向こうの”彼”はこの世界をどんな風に感じるのだろうか。

「そっちじゃない、こっちだ」

 ライクは砦の外に出ようとする僕を制した。門の内側についている壁を上る階段を上って外壁の上にでる。外壁には少し高くなっている広い場所があって、そこは普段僕たちが訓練で使っている場所だった。

「町からくるんじゃないんですか?」

「どうやら、飛行艇でくるらしい」

「……飛行艇を使うなんて、どれだけ等級が高いんですか?」

 僕は、空を飛んでいる飛行艇を見たことはあったが、乗ったことはなかった。僕のように等級の低い人間は足を踏み入れることもできない空間なのだ。

 驚きの表情を隠せない僕の頭をライクはポンと叩く。

「高いんじゃない。高かったんだ」

 二人だけの時にはライクはこうして僕のことを子ども扱いする。確かにここに来たばかりの時は背が低かったが、今は並ぶと同じくらいあるのに。

「きたぞ」

 ライクが手をかざして遠くを見る。

 森の木の向こうに小さな鳥のようなものが動いているのが見えた。それが見る見るうちに近づいてくる。

 鳥ではありえない無粋な爆音が聞こえ、兵隊たちが騒ぎ出し、壁の下に住んでいる者たちが叫び声をあげる。隊長が、下で落ち着けと声を上げているのが聞こえた。

 そう、この音が聞こえるときは警戒しなければならない。ここの砦の周りにやってくる飛行艇はほとんどが敵国のものだ。隊長が、下で落ち着けと声を上げているのが聞こえた。

 めったに現れることがない飛行艇はまっすぐこの建物を目指してくる。

 ようやく、飛行艇の上でひらめく金色の旗が見えてきた。日の光に反射して、星の紋章が見えない。

 飛行艇は砦の上を通り過ぎて、ぐるりと向きを変えると僕とライクがいる城壁の端のほうに機体を横付けした。風が巻き上がって、思わず僕らは顔をかばう。

 不思議なつくりの乗り物だった。そう“僕”の記憶を持つ僕は感じる。円錐形の形は”飛行艇”というよりも‷潜水艦”のようだ。でも、プロペラもなく、エンジンも載せておらず、それでもなおかつ宙を浮く乗り物。“ゆーふぉー”みたいだと思う。

 この光輝く乗り物こそ、この世界のエネルギーである“光”の象徴だった。僕たちのような等級が低い者には許されていない強い光がこの乗り物を動かすには必要とされている。これを動かしている人の等級はどのくらいなのだろう。

 巻き上げる風がやむころ、飛行艇の横腹が開いて梯子のようなものが現れた。それを小さな人影がそろそろと降りてくる。

 まだ、幼い子供だった。明らかに僕よりも年下だ。短く切りそろえた黒い髪の下から細くて白い首がのぞいている。来ている制服はぶかぶかで、体の大きさにあっていなかった。

 梯子の長さが足らなかったので、子供は軽い足音を立てて訓練場に飛び降りた。黒い瞳が遠くからでも住んでいるのが分かる。でも何の感情も読み取れなかった。

 高位の女性というから、召使いがついているのだろうか? “僕”の読んでいた小説の中身を思い出した。身分の高い人には必ず、お付きがついてくるものなのだ。この子はお仕着せを着た“めいどさん”には見えなかったけれど。僕は飛行艇から誰か降りてくるのを期待して待った。

 どんな顔をしているのだろう。暴力女と聞いたが、今だけは絶世の美女を想像していたい。

 飛行艇の開いた口に誰かが現れて、荷物のようなものが落ちてきた。そのまま、梯子が引き上げられる。

 え? 

 僕は子供をまじまじと見た。これが、彼女?

 僕の中にあった色っぽいじゃじゃ馬娘の像があっけなく崩れた瞬間だった。

 どうみても、子供だ。

 女じゃない。

 仮に、女だとして、まだまだ体は発達途上だった。細身の体はたしかにいささか丸みを帯びていたが、残念ながら男の子といっても通じるほどの体形である。

 要するに、期待できるふくらみは一切なかった。

 先に我に返ったのはライクだった。

「ようこそ、13砦へ。私は、ライク・ヘンケ准尉だ。君がここに新しく配属された、あー」

 ライクも彼女の名前を聞いていなかったらしい。

「ふら、フラウ」

 彼女は小さな声で、答えた。

「フラウ? フラウ、なに?」

 名字を尋ねられた少女は、しかし、答えなかった。

「あー、ここにいるのが君と仕事をするアークだ」

 ライクは厄介そうな少女を僕に押し付けるようにしたようだ。

「彼が君にいろいろと仕事を教えてくれる」

「アーク伍長です。フラウ、さん?よろしくお嬢……」

 丁寧にあいさつをしていたら後ろから蹴飛ばされた。

「お前の後輩だろう。もっと、こう、先任らしくふるまえ」

 僕は、先任たちのことを思い出した。彼らにされてきた様々な嫌がらせと、無茶苦茶な命令と、暴力と……

 無理だ。こんな、妹と同じくらいの小さな子供に、そんなことは……

 すでに飛行艇はどこか遠くへ飛んでいなくなっていた。

 その姿を、少女はぼんやりと見つめている。

「あ、あの、君の荷物はこれだけかな?」

 僕は彼女に声をかけた。

「よければ、君の部屋にまず案内しようと思うんだけど、どうかな?」

 ライクは、僕のそんな様子を見て、これはダメだというように首を振った。

 しかし、どうふるまえばいい? まさか、こんなに小さな女の子だとは思っていなかった。そもそも、こんな幼い子供をこんなところに送り込んでよいのだろうか?

「ここに来たのはもちろん初めてだよね。僕も、最初はこんなところだとは思わなかったよ」

 少女は黙ってついてきた。

 僕は、何をしていいのかと迷いつつ、くだらない話を垂れ流した。

 周りの目も気になる。

 女が来たと、興味津々でやってきた兵士たちが一様に失望して、引き返していくのが気配でわかった。

 あれが女? 詐欺だ……だまされた……

 そんな恨みがましい目が僕らの後を追ってくるような気がする。

「あの、彼らはここの兵士たちで、僕とライク殿はここの事務方なんだ。君は事務官としてここに来たんだよね。彼らのことが気になるのかな? 彼らと僕らの宿舎は別の塔だから安心して」

 僕は彼女を事務方の使っている塔に招き入れる。

「こちらには隊長とライク殿と僕の部屋しかないんだ。こんな大きな建物なのに使っているのが、三人だけなんてちょっと寂しいだろう。昔はもっと数がいたらしいのだけど、ね。君も好きな部屋を使って構わないよ。僕が使っているのは三階だけれど、その上はがら空きで……ああ、でも長い間だれも使っていないもから、魔よけも解除していなくて、だから、三階でいいかな?」

 少女は興味深そうにあたりを見回していた。

「何か気になるかな? 掃除が間に合ってなくて、ずいぶん汚れているけれど、これでも……」

「古い、古い建物……」少女は壁に手を沿わせた。「星の宮と同じくらい、いえ、それよりも古いものかもしれない」

「……えっと……そんなに汚れが気になる?」

 少女は初めて僕の顔を正面から見た。

「こんな貴重な遺跡が今も残っているなんて、知らなかった。あなたたち、今もここを使っているのね」

 流れるような響きだった。同じ言葉を使っているとは思えないほど洗練された発音だった。明らかに僕らとは生まれた等級が違う。

「そんなにこの建物は古いんだ」

「ええ。エドゥという街のことを知っている?」

「????」

「昔あったという大きな町よ。国という人もいる」

 小さな女の子に地理や歴史の話を聞かされるとは思ってもいなかった。

「ああ、だからか。この近くには廃墟というか、遺跡というかがたくさんあってね」

 僕は少しうれしくなる。いままで、こんなことに興味を持つ人と出会ったことがない。

「いつか、見に行けると思うよ。偵察任務の時に」

 少女の黒い目に光が戻ったような気がした。大きくなったら、きれいな子になるかも。今は少年とも少女ともつかないただの子供だけれど。その予感に僕の心臓ははねた。

「あ、部屋に案内するね。とりあえず、僕の部屋の近くのどこでも使うといい。あの辺りはいつも見回りをしているから、魔が入り込んでいないはずだ」

「魔?」少女の目が見開かれる。

「あ、うん。ここは黒の裂け目に近いからかな? 小さい魔は現れることがあるらしい。僕はまだ退治したことはないけれどね」

「おとぎ話だと思っていた」

 少女がつぶやく。

「うん。時々出るらしい。僕はまだ見たことがないけれどね」

 怖がらせてはいけないと、僕は言葉を足す。

 僕の部屋がある階の比較的きれいな部屋に案内する。女の子がどういう部屋を好むのかわからないけれど、この部屋は寝台も机や椅子もちゃんとしたものがそろっていた。

「ここでいいかな? 他の部屋がよければ変わってもいいよ」

 少女はぐるりと部屋の中を見回す。

「どうかな? 何か足らないものがあるかな?」

 僕にとってみれば贅沢な部屋だ。一人で使える寝台があるからだ。ちゃんと寝具も用意した。

 でも、女の子の部屋としては殺風景かもしれない。“僕”の記憶がそうささやく。“僕”の考える女の子の部屋としては色がなさすぎる。“僕の知る女の子の部屋は、明るい桃色の壁紙や、フリルのついたカーテン、かわいらしい家具のそろえられた”あにめ“の中の部屋だ。そんな家具はここにはないし、調達もできない。

「ありがとう。ここにする」

 僕は好きなように模様替えしていいからといって、部屋の外に出た。落ち着いたら、この砦を案内するつもりだった。

 だが、待つ間もなく女の子は部屋から現れた。

「もう、いいのか?」

 こくりとうなずかれて、僕はとまどう。なんというのか、こんなにあっさりしていていいのだろうか? 

 女の子を相手にしているというよりは、なにか別の生き物と一緒にいるような感じがする。

「えっと、じゃぁ、生活で必要なところを案内するね」

 僕は、生活していくうえで欠かせないところを仕事の内容と一緒に説明することにした。

 朝起きて、顔を洗って、運動をして……僕の部屋のある階やその下にある隊長の部屋やライクの部屋、それから食堂に案内する。すでに彼女に興味をなくしたほかの連中は僕たちに見向きもしない。

「それからこっちが、浴場……」そういってから、困ったことを思い出す。

「君、お風呂好きだよね……水浴びしたいよね……」

 男しか使わない外壁の一角に設けられた施設に彼女を案内することはできない。

 どうしよう……彼女はきょとんとした顔でこちらを見ている。そのとき、食堂の奥で食事の支度をしているばあさんの姿が目に入った。

 そうか、あれでも、女だ。

「ばあちゃん」

 僕は賄いのばあさんに声をかける。

「あのさ、この子、新しくきた子なんだけどさ」

「知ってるよ」

 ばあさんは包丁の手を止めることなく僕に答えた。

「さっききた子だろう。女の子らしいね」

「うん、それでね、ばあちゃん」

 賄いばあさんは、包丁を置いてよいしょと腰を伸ばした。白くなった髪を撫でつけながらこちらにやってくる。

「どうせ、この子の面倒を見てくれとか何とかというんだろう」

 鋭い。

 このばあさんは厳密にはこの砦にいないことになっている人物である。僕がここに来る前から砦のまかないや外の女たちの世話をしているという謎の人物だ。元女兵士という噂もあれば、黒い民だという噂もある。ともかくこの砦に誰よりも長く住んでいる主なのだ。

 僕は仕事柄、ばあさんと話すことが多いのだが、怖い存在だ。

「そうなんだよ。風呂とか、着替えとか、どうしようかと…」

「おまえ、なんという名前なんだい?」

 ばあさんは同じくらいの身長の少女にきく。

「……フラウ」

「フラウ、かい。確かに女の子を野郎どもと一緒に風呂に入れるわけにはいかないな。体を洗う場所は貸さざるをえないだろうね。水浴びするときはここに来るんだ。その時までに話をつけておく」

 さすがは遣り手ババ様だ。話が早い。

「それはそうと、アーク。ここに来たということは、当然仕事をしに来たのだろうね」

「あ? え?」

 食事時以外は近づかないようにしようと努めていたのに、うっかりしていた。フラウの案内ということで、どこか気分が浮かれていたのかもしれない。

「今日は、この子の案内で、ちょっとここに寄ったんです。今から行くところがあるから」

 逃げようとすると、杖が目の前に突き出されていた。

「アーク、もちろん、仕事をしに来たんだよねぇ」

 のどに引っかかるような声で命令されて、僕はしぶしぶ老婆の言うことを聞く。彼女の言うことはここでは絶対だ。食堂の主に逆らって生きていけない。

 結局、僕は食材を洗う作業をやらされた。フラウも一緒だ。外の水桶の脇に腰を下ろして、延々と土のついた根菜を洗う。

 フラウは要領をえない手でおっかなびっくり泥のついた野菜を持ち、恐る恐るといった様子で僕のまねをして野菜を洗い始めた。飛行艇に乗ってきた時から思っていたことだが、彼女は実はお嬢様だったのだろうか? 僕の記憶にある“お嬢様”は、時折車の中からちらりと見える明るい色の布や、帽子や、花飾りでしかない。本物のお嬢さまというものをこの目で見たことはないのだ。

 だけど、“僕”は“お嬢様”というものの存在を知っていた。“僕”は決して裕福な家庭というわけではないようだったが、ショウセツや“あにめ”や“どらま”で、上流階級の子女というのはこういうものだという知識を得ていた。

 その“お嬢さま”は、大切に大切に育てられて、土に触れたことなどない、料理も洗濯もそういうめんどくさいことから解放された人だった。だから、そういうことをやらせたらとても要領を得ないというのが定番中の定番だ。ちょうど、今のフラウのように。

 もし僕がその知識を持っていなかったら、彼女のことを知恵遅れだと思ったかもしれない。

 イライラしたり、いじめたり、そういうことをしたくなったかもしれない。

 幸いなことに、彼女のそういう態度は僕の中で彼女が“お嬢様”であると変換されて、逆に好ましいものになっていた。向こうの“僕”の好みがそういうお嬢様だったせいもあるだろう。

 たとえ、黒い髪、黒い目のいかにもレベルが低い外見であっても、彼女が“お嬢様”だと思うと少し楽しくなってくる。

 鼻歌を歌いながら、野菜を洗う僕をフラウは不思議そうに見つめた。

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