フラウは真正の“お嬢様”だった。
周りに世話をされることに慣れていた彼女は掃除も洗濯も料理もしたことがないようだった。僕は彼女につきっきりでいろいろなことを教えた。
それだけで、夜の自由時間までつぶれてしまった。
明日、一日こんな感じなのだろうか。
などという感慨にふける間もなく、僕は眠り込んでしまった。
気が付くと、もう朝だった。いろいろと悩む暇もなかった。夢を見ることもない泥のような眠りだった。
「おはよう」
僕がフラウを起こしに行くと、彼女はもう起きていた。
僕は彼女をいつもの訓練場所に連れ出す。
「ここで体を鍛えるんだ」
僕がそういっても、フラウは鍛える意味が分からないようだった。
「なぜ、走ったり、筋肉を鍛えるの? ここの人たちの趣味なの?」
「? 遊びでやっているわけじゃないんだ。体を鍛えておかないと、困るだろう?」
「? 光衣を使った戦闘訓練ではないわよね。ここに人たちは生身で訓練をするの? 格闘や剣術の訓練じゃなくて?」
「???? ひょっとして、これが単なる趣味だと思ってる?」
さすがはお嬢様、考えることが違っていた。僕はどうやってこれがここで生きていくために必要なことだと伝えようかと言葉に迷った。
「確かに僕たちは事務職だけど、偵察任務には参加しないといけないし、もし魔人が現れたら戦わないといけない。その時に備えて僕たちは体を鍛えておかないといけないんだよ」
「でも、鍛えてもたいして強くならないでしょう。本当に訓練をするのなら、種を使って訓練しないと」
「種って、光の種のこと? そんなものは使えないよ。僕らのレベルだとね」
「レベルが、足りない? レベルが関係あるの?」
「そうだよ。僕もだけれど、ここにいる人たちのほとんどは兵士の基準すれすれの等級なんだよ。だから、そんな、光の種を使って訓練するなんてそんな贅沢なことはできないよ」
なぜかフラウはショックを受けているようだった。何か変なことを言っているだろうか? 僕のほうも何がフラウを驚かせているのかわからない。
「おい、お前たち。何をしている」
そこへ嫌な奴が割り込んできた。この砦の古参であるラーズ曹長だ。彼もまたこんな土地に送り込まれてきた訳あり兵士の一人だった。
僕も来た当初からこのずんぐりした男にしごかれている。
彼は偵察任務で砦を離れていたはずだ。昨日の夜、帰還したのかもしれない。
「すみません。すぐ始めます」
彼には逆らうよりも命令を実行したほうがずっといい。
僕はフラウを促して、走り込みを始めようとした。
「ちょっと待て。おまえ、新入りだな」
ラーズが僕らを止める。
僕はどんな難癖をつけられるのか、振り向く前から恐れていた。
フラウはしかし、ラーズのことを知らない。
彼女は僕に対する態度と同じようにまっすぐラーズを見てうなずいた。
「お前……」
ラーズが目をむく。どうしよう、フラウが殴られるかもしれない。僕は怖さと義務に挟まれて動けなくなる。
「なんてことだ。こんな小さな子が……」
ラーズは膝を落として、フラウと目の高さを合わせる。いかつい顔がくしゃりとゆがんだ。
え? ラーズ曹長が笑ってる?
気味が悪い。
「こんな小さな女の子が兵士に」
不気味なものを見てしまった。ラーズが相手のご機嫌を取っている。それも、手を取らんばかりの様子だ。
“尊い……” 向こうの僕の記憶が彼の省いた言葉を補った。
いけない。こいつは、“お巡りさんを呼ぶ”事態だ。
僕はとっさにラーズとフラウの間に割って入る。
「なんだ。アーク。お前、生意気な真似をするな」
僕をにらみつける曹長はいつものいかめしい古参兵だった。
「大丈夫。アーク、この人、悪い人じゃない」
フラウは首をふる。
いや、おかしい奴だろう。
今の今まで曹長がこういう趣味だとは思っていなかった。
「か、かわいい」
曹長の日に焼けた荒れた肌に朱がさしたように見えた。
僕だけではない。周りにいて成り行きを見物していたほかの兵士たちも動きを止めていた。
「な、名前は?」
「フラウです」
「フラウちゃん。俺はラーズ曹長だ。なんでも困ったことがあったら相談に来てくれ」
目のきらきらするおっさんというものをここでは始めてみた。
向こうの“僕”は似たような人を見たことがある。追っかけというやつだ。
何を隠そう向こうの“僕”も似たようなことをしている。
しかし、屈強な体格のおっさんがこれとは。それまで、そんなそぶりも見せていなかった曹長の意外な一面を見た。いや、ひょっとすると、この趣味が原因でここに送られてきたのかもしれない。
「ありがとうございます」
僕の懸念をよそに、しかし、フラウは当たり前のように笑顔を返す。
「お気持ちには感謝しますわ」
「クゥ――――」
曹長は意味不明のうめき声を漏らした。
「フラウ、向こうに行こう?」
僕はフラウにささやいた。
「アーク、お前、フラウちゃんをどうするつもりだ」
僕に対しては正気な曹長は言葉を荒くする。これは鉄拳制裁が待っているだろうか? 僕は反射的に身を固くする。
「ラーズ曹長」
それを救ったのはフラウだった。
「アークは、私の案内をしてくれているだけです。大丈夫ですから」
にこりと笑うと、目の前の男が奇妙に浮ついた眼を泳がせた。
「アーク、行きましょう」
すごい。本物のお嬢様だ。僕は、すっかり牙を抜かれているラーズ曹長を見て思った。なんというか、こういう輩のあしらいに慣れている。
真正のアイドルだ。“僕”だったらそう感じただろう。
でも、今の僕の目にはこの子は妹と同じくらいの年頃の女の子だ。もう少し大きくなれば美少女といわれていたかもしれない。ただ、黒い髪、黒い瞳では、どんなに顔立ちが整っていても石ころに等しい。等級が低い者からは、等級が低い者しか生まれない。それが、ここの秩序だからだ。
こんな、美少女の卵、でも、だ。
「どうしたの? アーク」
「いや、フラウって“あいどる”だな、とおもって」
「あいどるぅ? なに、それ?」
「ああ、えっと。ほら、宣伝用の映像の中の人たちみたいな光っている人のことさ。ああいう、話題になる人たちのこと」
フラウの顔がこわばる。何か悪いことを言っただろうか?
「いや、その、曹長も君の言うことは聞いたじゃないか。そういう、影響力のある人という意味で、特に意味はないよ」
なんと表現したらいいのだろう。
うっかりと口を滑らせてしまった。ここと、夢の世界は、色々と差がありすぎて、そして、ここで、あちら側のことを口にするのは危険だと。
「気にしないで。えっと、運動しよう。まずは走り込みから」
外見からわかっていたことだが、フラウは僕らの基準からすると最低ランクのさらに下だった。幼い子供にこの量の運動は無理だと思っていた。
ぐるりと外壁を一周するころにはフラウはもう歩くことさえできなくなっていた。
「大丈夫かい?」
日陰に連れて行って、水を飲ませる。
「う、だ、……」
大丈夫といいたいみたいだけれど、大丈夫でないのは、まるわかりだ。
「アーク、走るぞ」
ヘルドが声をかけてきた。
「ああ、でも、フラウが……」
すぐにでも医務室に連れて行ったほうがいいだろうか?
そんなことを考えていた僕にヘルドは首を振った。
「古参兵たちが睨んでいる。その子なら大丈夫だ。曹長が目を光らせておいてくれているから」
フラウは目で行っていいよ、と合図してきた。
僕は仕方なく、ヘルドと訓練を続ける。
「しかし、あんな小さい子だとは思わなかったな。あれじゃ、女ともいえないよ」
ヘルドがこぼす。
「いい子だよ」
「しっかし、おまえも貧乏くじを引いたよなぁ。あの子の世話係なんて」
「そうでもないさ。素直な子だしね。手はかからない」
「いや、そうじゃなくて……」
誰も見ていない死角に入ったので、ヘルドは立ち止まる。
「あの子、訳ありだろう」
「訳あり?」
「そうさ。あんな小さな女の子がここに送られてくるなんて普通ありえないだろう。噂を聞いたんだけどな」
「うん」
「前にも、ああいう子供が送られてきたことがあったらしい」
「そうなんだ。それは知らなかった」
「おまえ、のんきだな。のんきすぎる。いいか、その訳ありの子供はな、その子は、一月もたたないうちに事故にあって死んだらしいんだ」
「事故?」
「よくあることらしいんだ。ここに訓練と称して、罪を犯したおえら方の子供たちが送られてくる。そして、事故で死ぬんだ」
僕は唾をのんだ。
「今のフラウみたいに?」
「そう。事故に巻き込まれたとか、朝起きたら死んでいたとか、いろいろだよ。行方不明になった者もいるらしい」
いやな予感は当たった。どこか浮ついていた気持ちがすっと冷めた。
「それで、世話役はどうなるんだ?」
「それは聞いてなかった」
人が来る足音がしたので、僕らは走り始める。
そんなことは、とうの昔に知っていた。もう、隊長が僕にフラウを押し付けたときからわかっていた。
だけど、ヘルドの口からきくと重みが違う。微妙な周りの反応や、まかないばあさんの珍しく相手を気遣うような態度とか、わかっていたのだけれど。
フラウの幼い生真面目な顔が浮かぶ。体力もない、作業にも慣れていない女の子だ。事故に巻き込む方法などいくらでも思いつく。例えば、ここの城壁から落ちるとか、厨房で鍋をひっくり返すとか。
なるべく僕が付き添って守ってあげないと。
いつの間にか少女を守る気になっていることに僕は自分でも驚いている。
やはり、彼女には”アイドル”としての素質があるのだろうか?
「まずいな」
僕は大変なことを思い出した。
「フラウを曹長に預けてきたんだった」
もし、曹長がそちら側の人だったら……
「大丈夫だ。曹長はガチだから。あの人はああ見えて、小さくてかわいらしいものに目がないんだ。あの人の部屋をのぞいたことがあるかい? それはもう……」
「いや、それはそれで危険じゃないか」
僕は足を速めた。
フラウは無事だった。
よかった。何かあったら世話役の責任にされる。
もくもくと昼食をとってから、午後の訓練だ。
僕らはみんなで砦の外に行く。
ラーズ曹長がそれぞれの役割をふっていく。
「アーク、お前はフラウちゃんと畑だ。……いいか、あの子を泣かしたらただじゃおかないからな」
彼は僕にだけささやく。
もちろん、僕は彼女を手助けするつもりだった。だが。
「アーク、どうして、手で草を抜かないといけないの?」
大真面目に質問されて、僕は困った。手で抜く以外、どうしろというんだ?
彼女は畑で作業しているほかの兵士を不思議そうに見ている。
「光術を使った道具はないのかしら? あれがあれば、こんな作業はすぐに終わるのに。それに」彼女は本当に戸惑っているようだった。
「どうして農作業が訓練なの?」
「道具なんて、あっても使えないよ。草を抜くために魔道具を使うの? そんな高度な道具は僕たち砦の者全員の容量を合わせても動かないんじゃないかな?」
そういえば聞いたことがある。等級の高い人たちは農業も魔道具を使うという話を。“僕”の知識の中にある最先端の“野菜工場”や“大規模農場”のようなものなのではないかと勝手に想像していた。
「それに、食料は必要だろ」
「食料は星の兵士たちには必要な分だけ支給されるはず」
「足りないよ。だからここで作っている」
星の戦士、などという言葉はここでは違和感でしかない。まるでおえら方の演説みたいだ。
フラウは畑の土もいじったことがないようだった。僕がやり方を教えるとたどたどしい手つきでまねてくる。
「これでいいかしら」
「そうそう、そうだよ。うまくやっている」
僕は褒めた。
でも、ラーズは僕が怠けていたとこぼしていた。赤ちゃん並みの知識しかないフラウに仕事を教えながらだから、仕方がないのだ。
日中の訓練が終わると、僕はフラウを外壁にある洗濯女たちのところへ連れて行った。
「この砦にいる女性は彼女たちだけだからね。ばあさんに話はしておいたから、たぶん、湯を使わせてくれるはずだよ」
「あら、アーク。その子は、ああ、例の子ね」
珍しく僕が表から現れたのを目ざとく見つけたリリ姐さんがけだるそうに声をかけてきた。
「姐さん。お久しぶりです。今日は、この子のことをお願いしたくて……」
「話には聞いてるわ。あら、ほんとうに、小さい」
姐さんはちらりと笑った。
「えっと、この子の、服とか、いろいろお願いしたいんです」
「わかっているわ。いらっしゃい、あなたの名前は?」
「フラウです」
「そう、フラウ。いい名前ね」
「あ、僕は外で待っておくから、終わったら来て」
奥に連れていかれるフラウに僕は慌てて声をかけた。
「あら、遊んでいかないの? しばらく、時間が空いているのなら、ちょっと遊んでいかない?」
他の姐さんたちからも声がかかる。
「い、いや、結構です」
慌てる僕の様子に女達の含み笑いが起こる。
「その子が育つのを待ってたら、ジジイになってしまうよ」
「今日こそは、大人になるんじゃなかったの?」
僕は慌てて建物の外に出た。